2006.02.28

「NYから眺めたフジヤマ」byマイク・アキオステリス(日本通米国ジャーナリスト)(50)「政治家のテレビ出演」  

50日本中が「堀江メール」でざわついている。そしてその矛先は、民主党に向けられたようだ。思えばこれほどの“大逆転”もめずらしい。ライブドアが東京地検から家宅捜索を受けた時、武部幹事長・小泉政権は確実に、窮地に追い込まれると思ったものだが…、そこに民主党から「堀江メール・カード」である。小泉純一郎という人はつくづく、運の強い人、鮮やかな運である。堀江メールが「ガセネタ」となってしまったことで自民党は一転、責められる側から責める側に立つことになった。ホリエモンも今頃、拘置所の中で「政治家はなんとバカな奴らだ」と、大笑いしていることだろう。それにしても、「堀江貴文」という若者もたいしたものだ。ホリエモンが近鉄球団買収に名乗りを上げてからというもの、彼の言動は“社会現象化”し、今なお、日本国の主人公を演じている。今や日本中のマスコミが堀江メールに関して“必死”に取っ組んでいるからして、当コラムにて“似たような意見”を論じても白けるだけだ。それに、世の評論家センセイたちもこぞって、“我が論”を得意気に披露しているに至っては、堀江メールについてつべこべ言うこと自体、同じ穴の狢となってしまうので、視点を変えることにした。今回、堀江メール騒動に接して感じたことは、日本の政治家たちのレベルである。それは、堀江メールを見抜けなかったとか、裏づけを取らずに発表したということではなく(こんなことは政治家としての常識、基本中の基本であるからして指摘する気にもなれない)、それ以前の「レベル」である。2月28日の朝、民主党のセンセイ方十一人が「みのもんた」司会の「朝ズバ」なるワイドショーに出演し、なんともいえない“醜態”をさらしていた。新聞のテレビ欄には『民主党議員が大集合!』『永田氏は辞職すべきか!』『執行部の責任問題は…謝罪だけで十分なのか!』『党再生の行方を生激論!』と、語尾にやたらと「!!!!!」を付けては、ワイドショーらしい味付けを施していたのがなんとも、おかしかった。さらに、番組の内容はあまりにも、お粗末であった。これでは、そのへんに転がっているタレント兼コメンテーターに語らせた方がましである。いくら日本中が堀江メールで揺れているとはいえ、日本の二大政党を担っている民主党の、それも民主党の明日を背負って立つべき若手議員たちが雁首そろえて恥を披露している。なにより、この名司会者?は、彼らのレベルをしっかりと見抜いているらしく、自分がさも“国民を代表して”いるような面と口調でセンセイ方に質問をぶつけていた。そこには、「朝ズバ」なる番組を少しでも印象付けようとする意識、自分の存在を巧みにひらかさんとするパフォーマンスが渦巻いていた。そんな雰囲気の中、議員バッチを付けたセンセイ方が競いあうようにトンチンカンな言葉を発した。その光景はまさに、滑稽のなにものでもない。テレビでの発言は場慣れした経験がものをいう。ましてや、自分たちが思っている意見やメッセージを、パフォーマンスと機転を織り交ぜて喋りまくる「タヌキのような司会者」を相手に伝えることはほとんど、不可能に近い。ましてや、それを伝えられる実力など、ないに等しいセンセイ方である。日本の政治家たちはテレビに出演して“顔を売る”ことに必死である。その結果、バラエティー番組からクイズ番組、お笑い番組にまで担ぎ出されては、国会議員という“タレント”を演じている。TV局が政治家を担ぎ出すのは何も、日本の政情・将来を見据えてのことではない。ただ、こうした騒動がおきた場合、国会議員のセンセイ方は“当事者”となるからして、番組は盛り上がり、視聴率があがる思惑からである。いうなれば、政治家のセンセイ方は、マスコミに踊らされ、メディアに媚びているのである。国会議員のテレビ出演が増えていくほどに、日本の政治も益々「劇場型」となっていくようだ。

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2006.02.08

「NYから眺めたフジヤマ」byマイク・アキオステリス(日本通米国ジャーナリスト)(49)田原総一郎氏の「脇の甘さ」

50  ライブドアの堀江社長は「サンデープロジェクト」(朝日系)などのテレビ番組に出演し、刺激的な自説を繰り返してきた。堀江社長がサンデープロジェクトに出演した時、田原氏より堀江社長の方が一枚も二枚も“うわて”のように感じられた。これはなにも、堀江社長の方がまともであったということではない。田原氏は、堀江社長の繰り出す自説や見解を「ジャーナリストとしての良識」にて分析せずして、堀江社長の自説に共感する論調であった。そこにはジャーナリストの視点とはほど遠い…、いや、彼はジャーナリストではなく評論家、それも政財界人脈からもたらされる情報や先入観をして、自分の考えを軸にして判断を急ぐ評論家…なのである。その結果、「人の心は金で買える」とほざく若者を、時代の寵児として見つめてしまうのだろう。なさけないことである。この手の番組がバラエティー番組やワイドショーならまだしも、政策・時事問題を検証する良識番組(?)である。さらに、番組の進行役が自称オピニオンともなれば、そこでの意見や自説は正当化され、さも「新しい時代の個性」であるかのように印象付けられてしまうのである。その田原氏がライブドア事件に関して産経新聞のインタビューに応じた。「(番組での取り上げ方には)大いに反省はあるが、当時、堀江容疑者のやっていることが犯罪だと見抜くのは難しかった」とし、「堀江容疑者が日本の古い体質を変えようとしたこと自体は間違いではない」とした上で、「ぼく自身も堀江容疑者に大いに期待していただけに、(今回の事件は)残念。かつて堀江容疑者を支持した人たちが道徳家みたいに彼を批判している。今は彼がどこで間違えたのかを冷静に議論することが大事だ」と述べていた(サンケイ新聞サイトより)。堀江社長を見抜けなかったのはなにも、田原氏だけではない。日本国の総理大臣、経済大国の日本経団連会長とて、「まさかホリエモンが…」であったからして、これについては、とやかく言うつもりはない。ただ、田原氏の言葉は一見、反省の弁を述べているように聞こえるがその実、行間から伝わってくるのは「田原総一郎らしき甘さ」でしかない。ライブドア事件をめぐる田原氏との一問一答の中で、「株式の百分割や時間外取引などを駆使した堀江容疑者の脱法行為は、卑怯(ひきょう)な行為を良しとしない日本の良識を破壊したとの指摘があるが」との質問があった。これに対し田原氏は、「マネーゲームや法のスキをつくこと自体は悪くはない」と答えている。また、ニッポン放送の買収については、「最後の護送船団と呼ばれるメディア業界に挑んだ彼には先駆者、挑戦者というイメージがあり、買収はできなかったが、世間は引き分けと見た。そして、『堀江は面白い男だな』と思った」と語っている。つまり、ニッポン放送を買収せんとした資金がマネーゲームで手にした金であろうと、また、法のスキをつくやり方で株式を取得しようと、それ自体は悪くないとの考えなのである。さらに、ホリエモンのイメージを“先駆者”“挑戦者”との視点にて分析し、そこにもっともらしき解釈までつけるに至っては、法律さえ犯さなければ何をしてもいいということだろうか。社会における健全な価値観や秩序は手段にて問われるもの、そのことを忘れているようだ。田原氏は他の番組でもよく、独断的な考えに照らして一方的な論を繰り出す。世間が納得しえないことでも自分が理解できたらそれでいいとする自信過剰と甘さゆえ、数々の失言を生じさせてしまうようだ。過去、田原氏の言葉に右翼暴力団たちが絡むのも案外、こうした「脇の甘さ」からではないだろうか。ホリエモンを錯覚させ、暴走させたのは他でもなく、良識のないマスコミであることを忘れてはならない。

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2006.01.22

「NYから眺めたフジヤマ」byマイク・アキオステリス(日本通米国ジャーナリスト)(48)日本社会の「有名人病」  

50 20日、朝日新聞のインターネット・サイトに、「『想定外』と新聞広告、堀江氏CM起用の八ちゃん堂」と、一風変わった見出しが掲載されていた。記事を読んでみると…、ライブドアの堀江社長をテレビCMに起用(CMは昨年12月まで)した「八ちゃん堂」という会社(冷凍たこ焼きの製造・販売業)が、九州地区の朝刊2紙に、「想定外」という広告を出したという内容である。同社の社長は広告の意図について、「堀江さんにとって、こうなるとは夢にも思わなかっただろうし、八ちゃん堂にとっても青天のへきれきだったが、これからもよろしくという消費者へのメッセージ」と話した。なるほど、同社が堀江社長を広告に起用したのは、「ホリエモン」の知名度にあやかろうと思ってのこと…、ところがその堀江社長が証券取引法違反で逮捕されるとあっては、企業イメージにキズがつきかねない。そこで、新聞広告を介して、「当社はライブドアとは無関係です」、と言わんばかりのメッセージを発した。ライブドアが家宅捜索された日が16日、その4日後の20日には早、新聞広告を打ち出したわけだ。敏速な対応である。それも、広告を出すに際し、堀江社長の専売特許である「想定外」という言葉を使うあたり、なかなかのものだ。たしか自民党の武部幹事長も、「堀江社長との関係はあくまでも、業務の流れにて関わった一接点にすぎない」と言っていたが、白ける話である。彼は群衆の前で「堀江社長は私の弟分」「日本を背負って立つ若者」と絶賛していたはず…、手のひらを返すにしてももう少し、気のきいた言葉があっただろうに。もっと露骨なのがテレビ局だ。多くのテレビ局がホリエモンに群がり、彼を競ってテレビに引っ張りだした。某テレビ局などは、堀江社長所有のジェット機に番組スタッフを搭乗させ、「マスコミ初の機内公開!」とはしゃいでいたのに…、それが一転して、ホリエモン叩きである。まあ、これが世にいう“社会の現実”というものだろう。それにしても堀江社長、他社の広告にまで出ていたとは…、わずか2年前までも“普通の青年”であった彼が一躍、IT時代の寵児として担がれ、マスコミに煽られるうちに「思い切り錯覚」してしまったようだ。そればかりか、ライブドアの広報担当の美人?秘書までが有名人として騒がれる始末。なんともふざけた話である。こんなにも“有名人”に弱い国は多分、世界でも日本ぐらいではないだろうか。実際、日本では一旦、マスコミで“おもしろい人物”と騒がれたらたちまち、有名人である。過去に、野球監督の妻というだけの女性が「有名人」として脚光を浴びるうち、衆議院選挙にまで出馬する有様。ところが、である。なんの取柄もない彼女が「テレビに出ている有名人」というだけで、四十万票以上を獲得してしまうのである。衆議院選挙に立候補した堀江社長も同じだ。なんとも恐ろしい現象だ。こうした現象もみな、マスコミのせい…、マスコミが生じさせた現象である。日本のマスコミは人物の資質や人格、価値観などは一切問わずして、おもしろければ何でもいいという風潮に浸かり、節操のないバカ騒ぎを繰り返している。その結果、弁護士がタレントになってCDを出し、なにが本職かわからない女性(叶姉妹という女性たち)がいろんなメディアに顔を出している。もっとひどいのは、“出たがりの金持ち連中”がテレビで得意気に悪趣味を自慢し、ホストや美容師までが“カリスマ”との紋章を付けて有名人の仲間入りである。マスコミに感化されて似非有名人に群がる国民たち…、ホリエモンという若者を麻痺させ、錯覚させたのは他でもなく、日本のマスコミであることを忘れてはならない。


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2006.01.17

「NYから眺めたフジヤマ」byマイク・アキオステリス(日本通米国ジャーナリスト)(47)「ホリエモン」を出現させた世間の罪 

東京地検特捜部は16日、「ライブドア」が虚偽の事実を公表し株価をつり上げた疑いで、同社などを家宅捜査し50た。東京地検特捜部の捜査に日本中のメディアが、その間における「ライブドア=堀江社長=ホリエモン」に対する疑問、疑惑、矛盾などを「ここぞとばかり」に報じ始めた。その報道ぶりを見ていると、「ライブドア=堀江社長」に向ける国民の感情を代弁するかのような論調である。実際、どのメディアの報道をみても一旦は、頷ける内容に仕上がっている。そればかりか、記事の行間から「ざまあみやがれ!」「胸がスカッとした!」、といった声が聞こえてくるようだ。無理もない。近鉄球団買収に名乗りを上げた堀江社長はその後、ニッポン放送の買収、衆議院選挙への出馬と、あらん限りの話題を振りまきつつ一躍、IT時代の寵児に躍り出た。して、堀江社長の言動から繰り出される違和感、無礼な態度、日本社会にて受け継がれてきた伝統的概念や企業論理、秩序を無視したような振る舞い…、さらに、そこにやっかみ、ねたみ、憧れなどが加わったことで独特の、「ホリエモン観」を渦巻かせてきた。三十歳そこそこの若者が時価総額7000億円のIT企業グループのトップに君臨し、やりたい放題なことをやっているイメージを振りまいてきた印象をして、日本中の誰もが「ライブドアに関しては一言、言いたい」との心情になってしまったようである。それだけに、日本のマスコミにとってこれほどの“価値あるニュース”はそうそう、ないだろう。過去のリクルート事件やロッキード事件といったものとは比べ物にならないほどの…、日本列島という大スクリーンで上映されなければならない一大エンターテイメント事件である。でも昨日(16日)と今日(17日)は、新聞やテレビだけがホリエモン協奏曲を奏でているが、明日あたりから週刊誌軍団が本格的に乗り出してきて、「ライブドア=ホリエモン」の知られざる一面をこれでもか、これでもかと繰り出してくるはず。それも一見、ごもっともと思える論調の“似非良識”で大合唱をなるだろう。実際、東京地検の家宅捜査に早速、「新興企業にありがちな脇の甘さを感じる」(鉄鋼メーカー幹部)。ある大手証券幹部は「ザル法を逆手に取って、やりたい放題だった」と吐き捨て、ジャーナリストの大谷昭宏氏は「国としても企業倫理の無視には歯止めをかけなければならない。今回の捜査は、いい意味での国策強化の意思表明だ」。帝京平成大情報学部教授の鳥井守幸氏は「家宅捜索は、ルール無視、常識外れの手法がいつも通用するとは限らないということを示したものではないか」と分析。経済アナリストの森永卓郎氏は「東京地検は一石を投じた」と語っている。なるほど、堀江社長の言動には多くの違和感を覚えるし、ライブドアが今日に至った過程、手段には批判されるべきことも少なくないが、でも、彼を時代の寵児に祀り上げたのはその実、マスコミをはじめとする“日本の社会”であったはず…、彼を「セレブ族」や「ヒルズ族」の雄と持ち上げた背景には、「利益優先」「拝金主義」を煽る空気があったからである。堀江社長を射る前にまず、“ホリエモン”のような若者を出現させた社会の罪、彼をスターに仕立て上げて躍らせたメディアの罪、彼をここまでのさばらせた世間の罪、そして、ライブドアという企業に群がった関係者や企業の罪なども裁かれるべきであろう。さらに、この程度の若者を自民党が肩入れして立候補させ、その選挙応援に小泉首相の右腕と自認している武部幹事長までが駆けつけ、「堀江社長の若き情熱とアイディアで日本を変えていきたい」とのたまっておいて何を今更…、彼らも世間もみな、堀江社長に石を投げつける資格など、ないのである。今後、ライブドアに関する容疑は徹底的に糾明されなければならないが、だからといってそれが、「出る杭は打たれる」との、“日本式制裁”であってはならない。(冒頭写真は、05年大晦日、日本レコード大賞新人賞のプレゼンターを務めた時のもの)

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2006.01.08

「NYから眺めたフジヤマ」byマイク・アキオステリス(日本通米国ジャーナリスト)(46)「マネックス証券」の“企業モラル”

長い不況のトンネルから抜け出したかに見える日本経済、株価も昨年後半から一斉に上昇している。マスコミも連日、“株式投資を煽る”かのような記事を垂れ流し、一億総投資家の狂乱を発している。経済誌はもちろん、写50真週刊誌、女性誌までもがブームに乗り遅れまいとして、株関連記事を躍起に繰り出している。その様子は、バブル期の乱舞を彷彿させる。「プチ株でデート代を稼ぐ」、「女性の感性が選ぶ上昇する株一覧」、「百万円を一億円にした主婦」…、これだけ大きな音で奏でられたら、多分にその気になって当然だろう。して、若者から老人までが、株式投資に群がる。昔は株への投資は玄人筋(経済知識・株知識に精通している人たち)が主だったが、今は素人でも簡単に株が売買できるようになった。インターネットによる株取引が玄人と素人の境界をなくしたからである。本屋で「株投資入門」などのマニュアル書を購入し、ネット証券に登録するだけで、いっぱしの“投資家”になれる。して、コンピューター・ゲームをしているような感覚でキーを操作すれば、たちどころに株の売買ができる。スロットマシーンよりも簡単だ。昨年中旬からの株価上昇率は30~40%、株投資を始めた大部分の人が大儲けしたことだろう。PCのキーを叩くだけで数十万円、数百万円…、なかには何億円もの大金を手にした人もいる。一生かかっても貯められない大金を手にした幸運者?たち、彼らの有頂天がブームをさらに扇いでいく。汗して働くことが益々、バカらしくなって来る世の中だ。そんな中、インターネット専業証券のマネックス証券グループが、10万円を元手に小中学生にネットを通じた株式売買を体験してもらおうと「株のがっこう」を開校したという。元手の10万円はマネックス側が提供し、現金を参加者の口座に振り込んで株取引に臨んでもらうのが目玉で、生徒募集に約600人が応じた。さらに、1月下旬に始める株取引に備えて東京証券取引所で開いた授業には、課題の作文で選ばれた小5から中3の子どもと保護者ら28組が参加。授業は「お金の上手な増やし方」や株の売買の仕方といった基礎編から、日本マクドナルド・ホールディングスやモスフード・サービスの収益や株価の推移を例に投資のポイントを学習する実践編まで、本格的な内容だという。この報せに一瞬、「日本の社会もここまで麻痺してしまったのか…」と、唖然となった。なにも、子どもたちに「株の勉強」や「お金の上手な増やし方」を教えることが悪いというのではない。また、株式投資は立派な資産運営手段の一つであるからして、それ自体を否定しているのでもない。ただ、いくら「未来の顧客」を養成するためとはいえ、まだ十歳前後の子どもたちに“バクチ場”の醍醐味を味わってもらうよう誘導する企業戦略?はいかがなものかと、疑問を感じたのである。アメリカにも「中毒させるには早い方がいい」との言葉があるが、お金に執着するガキたちが増え続ける…、想像しただけで背筋が寒くなる。子どもが父親に、「お父さんは株で幾ら儲けたの」と聞いてきたら父親は、「子どもはそんなことに関心をもたないでいい。勉強しなさい」と叱るのが、真の教育であるはず。それを早くから“株投資”へ誘導するとは…、それも先生役を務める御仁が内藤忍(ないとう・しのぶ)マネックス・ユニバーシティ社長というから呆れる。トップが麻痺しているようでは企業モラル云々も、あったものではない。マネックス証券の誰がこんな企画、戦略を考え出したのか知らないが、日本の子どもたちの精神を蝕むようなことは絶対やめてもらいたいもの…、いや、証券会社だからこそ、日本の子どもたちの将来を考えるべくして、子どもたちに「人生には金よりもっと大切なものがある」ことを教えていかなければならないはず、それが「企業モラル」というものである。(写真は、今週発売の『週刊大衆』記事)

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2005.12.20

「NYから眺めたフジヤマ」byマイク・アキオステリス(日本通米国ジャーナリスト)(45)「芸能ネタ」好きな日本のマスコミ 

5012月20日午後(2時過ぎ)、読売新聞のウェブ・サイト「YOMIURI ONLINE」にアクセスした。すると、ウェブ玄関のメイン・サイトに『姉歯元建築士1か月ぶり“帰宅”…捜索に立ち合い(13:31)』との見出しが掲げられていた。20日から欠陥マンションの捜査が一斉に始まったことの、関連ニュースである。続いての見出しが、『旧日債銀への損賠訴訟、元会長ら2億円支払いで和解(13:40)』『未払い分手当83万円、在韓被爆者に支払え…長崎地裁(13:51)』『触った!の声、出勤途中の警官らに取り押さえた男が死亡(14:08)』と続いた後、『村上里佳子さんと渡部篤郎さんが離婚(11:17)』の見出しがあった。離婚という言葉にすぐ、“芸能記事”とわかった。ところが、芸能音痴の私は「村上里佳子、渡部篤郎」なるタレントが誰だか知らなかった。でも、“天下の読売新聞”がウェブ・サイトのメインに掲げた記事ゆえ、それなりのニュース・バリューはあると思い、サイトを開いた。記事の内容は、「タレントの村上里佳子さん(39)と俳優の渡部篤郎さん(37)が離婚したことが20日、わかった。同日会見した渡部さんが19日に離婚届を提出したことを明らかにし、『自分が仕事に夢中になるあまり、家庭とのバランスが取れなかった』と話した。2人は94年に結婚していた(2005年12月20日11時17分 読売新聞)」とあった。欠陥マンションで揺れる師走の忙しい時期、タレントの離婚話に付き合っていられない。正直、がっかりした。タレントの離婚が重要なニュースかどうかは別にして、大手新聞の玄関サイト・メインページには掲げられない内容である。なにも芸能関連のニュースがいけないというのではない。ただ、サイト入り口メイン・ページ上段に並べられる見出しともなれば、各ジャンル別(社会・政治・国際・経済・文化)のニュースの中から重要度の高いニュースが優先的に選択されるべきもの…、この手の芸能ネタは「芸能欄」か、或いは、「TV・文化欄」「話題」のジャンルにて報じるのが常識である。ウェブ・サイトでのニュース配信とて、活字媒体の編集手順と同じであるはず…、関係者たちはどの情報を優先的に配信し、どのニュースをどう仕分けしていくか、慎重に向かい合わなければならない。少なくとも、この程度の芸能ネタを日本有数の大手メディアともあろうものがウェブ・サイト入り口のメイン・ページに掲げるとは、情けない限りだ。無理もない。日本のマスコミ関係者の多くが、芸能ネタは重要な情報ネタと錯覚しているらしく、それなりのバリューに値するニュースと信じているようだ。こうした傾向は読売だけではない。他のメディアも似たり寄ったりだ。今日のインターネット時代、社会はリアルタイムで動いている。そしてそこでは、ありとあらゆる情報が行き交っている。それだけに、大手メディアと名乗り続けたい以上、配信されるニュースや情報は常に、社会的重要度、国民生活との関連度、そして、知る権利と知らせる義務に照らして報じられなければならない。こうしたメディアの常識、ジャーナリズムの良識が失われた結果、重要な出来事・事件までも「エンターテイメント型報道」となり、「劇場型のニュース」に変形してしまう。いかに重要なニュースや貴重な情報とて、日本でしか通じないマスコミ関係者の“勝手”な水準とレベルで図られては、メディアとしての信頼が失われるだけである。

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2005.12.14

「NYから眺めたフジヤマ」byマイク・アキオステリス(日本通米国ジャーナリスト)(44)欠陥マンション騒動と「自己責任」

日本では今、「欠陥マンション」問題で大騒ぎになっている。衆院国土交通委員会は14日午前、構造計算書を偽造した姉歯秀次元1級建築士(48)ら4人に対する証人喚問を始めた。姉歯元建築士は最初に構造計算書を偽造したのは98年に施工された東京都内の分譲マンションだと証言。偽装を始めたきっかけについては、木村建50設・元東京支店長の名を挙げ、「『鉄筋を減らさないと仕事を一切出さない』と言われ、やむをえずやった」と述べた。そして、「住人、国民のみなさまに大変なご迷惑をおかけしたと深く反省しています」と頭を下げた。彼の謝罪が本心からなのか、それとも、場における形式的なそれなのかはしれないが、今回の問題は『深く反省している』という言葉ではすまされない問題…、重大な“事件”である。耐震偽装問題が発覚してからというもの、日本のマスコミは一斉に、姉歯元建築士やヒューザーの小嶋社長ら、関係者たちの相関図、彼らの人物像、舞台裏、人格、人生、変人度…etc、重箱を突っつくように暴いている。まるで、人民裁判で袋叩きにされているような印象だ。しかし、彼ら関係者の罪と責任が明確に炙り出される以前にレッテルを貼ってしまうことには、疑問を感じる。なるほど、金儲けのためには手段を選ばない、それも、人命に連なることもいとわない“モラル無き輩”ゆえ、晒し者になって当然との論理も成り立つだろうが、責任の境界線と量をしっかり見定めてから、それに見合った厳格な罰が下されるべきである。いくら叩くだけの名分があり、自家用機をもっているにせよ、こうした問題を“劇場型”の報道にて大騒ぎするのはかえって、問題をわからなくしてしまう。今回、同事件に関わった関係者の所業はうわべの“皮”でしかなく、根はもっと深いところにある。少なくとも、業界の惰性、日本の社会構造など、長年にわたって蓄積されて来た“非常識”と“安易さ”の歪なのである。その中でも、「自己責任」「責任と義務」といった概念が完全に置き去りにされている。今回特に驚いたのは、あれだけ大きな“罪”を犯した姉歯元建築士が未だ身柄を拘束されず、マスコミの取材で堂々と喋っていることだ。もちろん、建築法違反の処罰は1年以下の懲役、50万円以下の罰金となっているゆえ、それを括れる法的根拠がないからでもあろうが、彼の罪と責任は大げさにいえば、「詐欺罪」「殺人未遂罪」が成り立つほど重きものだ。責任には義務が問われ、罪には罰がともなう。このようなことは彼らだけでなく、欠陥マンションを購入した入居者にも、国にもいえることだ。入居者たちの多くが、安くて広いマンションを求め、自己の判断にて購入したはずだ。それだけに、被害者であるとする入居者の立場はあくまでも、業者と入居者の間における問題…、入居者はいい加減な業者を選択した責任、業者側はいい加減なビジネスをやった責任を自ら受け入れなければならない。また、国が“入居者支援”との視点で乗り出すこと自体、責任をより曖昧にするものだ。なんでもかんでも「親方日の丸」では困る。税金は国民ために使うべきもの、選挙の票を確保するための「ばらまき」であってはならない。さらに、金融機関がローンを組む場合、マンションを担保にして貸し付けるわけだが、担保物件の資産価値を徹底的に見極められなかった責任もまた問われなければならない。日本では昔から、義務と責任、権利と義務の図式が曖昧にされてきた。個々の責任に応じた義務、自己責任の領域をふまえた権利主張こそ、社会の秩序を形成する最低限の磯であるはずだ。

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2005.11.21

「NYから眺めたフジヤマ」byマイク・アキオステリス(日本通米国ジャーナリスト)(43)日本のTV番組の「幼稚さ」  

50 日本に出張中の11月19日(土曜日)、宿泊しているホテルで『脳内エステ IQサプリ』なる番組を観た。断っておくが、はじめからから同番組を観ようとして“フジテレビ”にチャンネルを合わせたのではなく、TVの電源を入れたらたまたま、この番組がはじまっていたのである。久しぶりに接した悪名高き日本のバラエティー番組…、でも当番組は一応、クイズ番組、バカ騒ぎする他のバラエティー番組とは違うと思い、チャンネルをそのままにした。当番組の放映時間帯は週末のゴールデン・タイム(7時~8時)、この時間帯はTV局にとって“勝負時間帯”、どの局も看板番組を投入する時間帯である。実際、番組スポンサーには日本を代表する大手企業がずらりと並んでいる。ところが、そのあまりにも「バカらしい内容」に辟易させられた。番組のキャッチ・フレーズは、「あなたの脳は疲れていませんか? 『脳内エステ IQサプリ』はあなたの疲れた脳をスッキリさせる『脳のリフレッシュ番組』です。ひねりの効いた良質の問題を解いていただくことで、脳をキレイにする」と謳っているが、そこには、娯楽性も、エンターテイメント性も、知性のかけらも感じられない。例をあげると、四角い紙の真ん中に小文字で「つ」と書かれてあるのをヒントに、ハサミとペンを使って『合格』を知らせる方法を考えなさいという問題。四角い紙の真ん中に『つ』と書かれてあるので『四っ角=しっかく』、つまり失格。これをヒントにしたところの正解が、四角い紙の真ん中に今度は『う』と書き、その四角い紙の一角を斜めに切って5角にすると、五角の紙に「う」という文字が書かれてあるので「五う角=ごうかく=合格」となるそうである。さらに、「宅配便で送られてくるはずの動物が届きません。送られてくるはずの動物はどんな動物でしょう」という問題の答えが、「届きません=トド来ません」ということで、「トド」が正解だそうである。なんともふざけた問題である。ただの言葉遊び、駄洒落を「IQサプリ」とする低次元のセンスもさることながら、このような番組をゴールデン・タイムに流すTV局の企画力に失望させられる。同番組を紹介しているHPには、「『脳内エステ IQサプリ』は、正解数を競うのではありません。正解を導くために、脳の分析力、 直感力、洞察力、計算力など、さまざまな脳の力を柔軟に使って、脳に磨きをかけていただくことが重要なのです。出題されるパズル問題は、脳を美しくするサプリメントと考えます」とあったが、文章に「届きません」という言葉が入っているからといって「トド来ません」となる問題が脳のサプリメントとは、笑わせる。同番組だけではない。いつだったか、夜の12時過ぎに放映していた若者向けのクイズ番組では、「パンダがいるのはどこの国でしょう」との問題が出され、答えを間違えた女性タレントが水着になるという、小学生の学芸会レベルの番組が放映されていた。いくら12時過ぎの番組とはいえ、このような番組を企画したプロデューサーの顔がみたいと思ったものだ。もちろん、これらは本格的なクイズ番組というよりも、お笑い番組としてのクイズだろうが、それでも、ここまで視聴者をバカにした構成、企画はいただけない。この程度のTV局でも何千億もの大金を出してほしがるIT企業がいるというから、今のうちに売り払ってしまった方がTV局にとって「またとない機会」かもしれない。


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2005.11.03

「NYから眺めたフジヤマ」byマイク・アキオステリス(日本通米国ジャーナリスト)(42)「親切」と「やさしさ」の国

先週、日本の出張から帰った。今回、成田空港での体験に皮肉な感動を覚えた。成田空港第一ターミナル、入国審査をおえて搭乗口ゲートに向かう途中、「喫煙室」があった。喫煙家の私はさっそく、喫煙室に入った。するとそ43こに「ライター」が備えられてあった。ライターといっても「100円ライター」ではなく、自動車用のシガレット・ライターと同じものである。喫煙室の中央通路にステンレス製の直径30センチ、高さ70センチぐらいの筒があり、その上面にシガレット・ライターが3つ付いていた。ボタンを押して10秒ぐらいするとコイルが真っ赤になって飛び出してくるライターである。電源の配線をみると「ちょっとした工事」を要する施設であることがわかった。このようなライターは既製品にないので特注だと思えた。金のかかる配慮である。喫煙室にライターを備え付けたのはテロ対策の一環として施されている「ライター類の機内持込禁止」からであろう。それにしても日本はなんと親切で、やさしい国だろうと思った。最近の空港はどこの国も「禁煙」である。これは今や「世界の常識」となっている。ところが、成田空港では“愛煙家”のために喫煙室を設けている。それもライターまで備え付けられてある。これほど親切な配慮は世界でも日本だけだ。成田空港だけではない。日本では公の場であっても、タバコを吸う権利はちゃんと認めてくれている。JR新幹線のプラット・ホームもそうだ。ホームの数箇所に「喫煙所」と書かれた場所がある。そしてそこにもステンレス製の立派な灰皿が備えられてある。いくらタバコの煙が周囲に嫌われようとも「決められた場所」では堂々と吸えるのである。愛煙家にとってはなんとも嬉しい理解だ。しかし、愛煙家を自認している私がいうのもなんだが、駅構内を全面禁煙とした以上、狭いプラット・ホームにわざわざ「喫煙所」を設けるのはおかしい。禁煙の処置は「場所」の問題ではなく、「煙の害」をして施される処置であるはず。これでは“抜け穴”をつくっているような印象を与えかねない。このようなことはタバコに限ったことではない。日本社会では「少数意見」にもちゃんと、配慮しなければならないようだ。もちろん少数意見、少数者権利には理解・配慮をもって向かい合わなければならない。だが、このような場合の配慮は「甘え」「偽善」「似非やさしさ」に他ならないように思えてならない。駅構内、空港構内は全面禁煙としながらもなぜ、例外を設けてしまうのだろう。これらは身体障害者に対する配慮とは違うのである。日本は一見、親切でやさしい国…、否、本当に親切でやさしい国である。エスカレーターに乗ると「もうすぐ降り口。足元には気をつけてください」とのアナウンスが延々と流れ、電車に乗ると「電車が動くと揺れますので気をつけてください」「ドアに指を挟まれないように気をつけてください」、駅の階段には「階段の上り下りには注意しましょう」…、幼稚園児でもわかるような注意書がベタベタ貼ってある。極めつけは「シルバー・シート」なるものだ。そこには「お年寄りや身体の不自由な方に席を譲りましょう」と書いてあるがいかんせん、それを守っている若者たちは少ないようだ。日本では「やさしさ」なる言葉が大流行である。企業は「環境にやさしい製品」を唱え、政府は「国民にやさしい政治」と叫んでいる。でも、その中には「甘え」をして放たれるやさしさが、少なくない。本当のやさしさ、本当の親切がどんなものか知らないから「やさしさ」を連発しているようだ。本当の“やさしさ”とはときに、「ルールと厳しく」向かいあう意識から連鎖されるものなのである。

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2005.10.20

「NYから眺めたフジヤマ」byマイク・アキオステリス(日本通米国ジャーナリスト)(41)国連分担金の不公平を言う“タイミング”

国連の分担金比率を見直す協議が国連総会で17日から始まった。日本の小沢俊朗国連大使が演説し、安保理の常任理事国ではない日本が、米国を除く常任理事国4カ国をあわせた額よりも多く負担することは不公平だとし31て「加盟国の地位と責任が考慮されるべきだ」と訴えた。9月の総会でも町村外相が分担金の包括的な見直しを要求。日本の負担軽減を求めていく姿勢を示した。日本はたしかに、国連分担金を多く負担している。現在、日本の国連分担金は19.5%。これは英国(6.1%)、フランス(6.0%)、中国(2.1%)、ロシア(1.1%)の4常任理事国の合計15.3%より多い額だ。常任理事国でもない日本が4常任理事国の合計よりも多い分担金を支払わされている不公平…、小沢大使が「(常任理事国という)地位を与えられていない国がこのような負担を続けることが公正の観点から認められるのか」、と訴える気持もわかるような気がする。しかし、この問題を出してくるタイミングが悪すぎる。日本は先に、常任理事国入りを目指して華々しい外交を展開、そこで高らかに掲げた名分が、「日本は約20%の国連分担金を負担して国連に貢献している。常任理事国になる資格は十分」という論調であった。ところが日本の常任理事国入りは頓挫、日本の外交の不手際を世界にさらしてしまった。こうなると、常任理事国入りで掲げた国連分担金の“威光”も意味がない。そこでさっそく、「日本の国連分担金は多すぎる!」と、軽滅を訴えた。日本の訴えに対して多くの国が、「それじゃなにか、日本は金で常任理事国を手に入れようとしたのか!」と思ったはずだ。少なくとも、「常任理事国にしてくれなかったから金を減らす」と言っているような印象を与えてしまう。これでは益々、日本という国は「金だけ」となってしまう。国連の分担金比率は3年に一度、見直される。07年から3年間に適用される比率は、この日の委員会を皮切りに総会や来年6月に開かれる分担金委員会(18カ国)などで来年末にかけて協議されることから、日本が分担金の軽滅を求めても不思議ではない。しかし、常任理事国入りの資格を分担金で翳した以上、『加盟国の地位と責任が考慮されるべきだ』という言葉を口にしてはいけない。国連本部を訪れた国際協力機構(JICA)の緒方貞子理事長も当日、分担金の問題について「日本は国連改革とか安保理の問題とリンクして発言すべきではないと思う」と述べている。常任理事国入りと分担金問題を切り離して展開できる外交、国際感覚こそが、常任理事国の“器量”なのである。日本が常任理事国入りを目指していた春頃、日本の多くのメディアは、「国連分担金を多く負担している日本ゆえ、常任理事国になってもおかしくない」…、といったことを掲載していたが、このような次元ではとてもじゃないが、国際社会のリーダー役は務まらない。実際、アメリカがイラク攻撃に傾きだした頃、主要国の意見は二つに割れた。ところが日本は、主要国の意見を眺めつつ、最後までどっちつかずの態度に徹していた。結局、アメリカに従うように賛成したのだが、国際問題に際して何の判断も、自らの判断も下せない国が、どうして常任理事国になれよう。こんな調子では「日本はお金で貢献してください」、と言われてもしかたがないだろう。なにせ、日本は世界から「アメリカに次ぐ経済大国」と崇められているのだから…。

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2005.10.11

「NYから眺めたフジヤマ」byマイク・アキオステリス(日本通米国ジャーナリスト)(40) TV局協賛の「小泉劇場」 

先週の週刊文春(10月13日号)に、「『小泉支配』を考える:第三弾」「小泉劇場に乗っ取られたテレビの自殺」との見出しにて、小泉劇場の巧みな演出、鮮やかな演技、それを支えたテレビのメディアとしての不甲斐なさを切り111まくっている。無理もない。今回の衆院選は小泉一座の一大舞台であり、それをテレビは絶妙なアングルで中継、国民たちを思い切り錯覚させたからである。テレビはメディアの中で最も影響力をもった媒体である。それだけに、テレビは絶対、中立を貫かなければならない。ところが今回、テレビは終始、“小泉劇場の中継”に徹した。「衆院選」という国家の一大事をまるで、視聴率を稼ぐ「特番」のような視点で取り上げた。そこには、冷静な視点も、批判も、問題定義も…、候補者を選択するに必要な最低限の情報、メッセージさえもなかった。どこのチャンネルでも、そこに映し出される顔は同じ顔ぶればかり。タレント文化人なるコメンテーターや似非評論家の、的外れ能書きのオンパレードであった。これではいけない。テレビは「公」の使命を背負っている。候補者たちの能力や資質を問う視点、公約などを吟味する視点、物事の本質を見極める知識人、評論家方の意見を国民に伝えなければならない。でもテレビはそのようなことにはとんと関心がないようだ。ただ、“話題性”と“お騒がせ”の場面だけを垂れ流せばいいと考えている。メディアの義務、使命を忘れて視聴者受けする「おもろい画」だけを垂れ流すのも一種のヤラセのような気がしてならない。この罪たるや、ジャーリズムの魂を捨て去る自殺行為でもある。とくに、文春が投票日前に放った「佐藤ゆかりセンセイの不倫メール」はどこのテレビ局も取り上げなかった。あの記事は政治家の“資質”を問うメッセージ…、メールの一部を掲載しての貴重な情報までもが小泉劇場の歓声にかき消されてしまった。あの「不倫メール」の記事を掲載した文春のタイミングは、「さすが!」と思ったほどだ。衆院選というバラエティー番組、お騒がせ候補者のワイドショーを延々と垂れ流し、郵政民営化の是非、その他の政策などには見向きもしなかったテレビは完全に、メディアの名前を返上してしまったようである。その結果、勘違いした輩たちが国会議員のバッチをつけ、「センセイ」と言われるに至ったのである。文春は記事の前書きで、「はっきり言おう。今回の選挙戦は『週刊誌の敗北』だった。活字メディアがさかんに送り出した反小泉のメッセージは、小泉に乗っ取られてしまったテレビの前では蟷螂の釜に過ぎなかった。低俗なテレビ番組に慣らされた国民を引き連れて小泉首相はどこへ向かうのか」と、活字メディアがテレビに及ばなかったことを「敗北」と記している。この潔さこそ、文春が発する「怒り」と「悔しさ」に他ならない。今回、文春の記事を読んで「ごもっとも」と同感したが、だからといってなにも、文春を贔屓にしているのでも、賞賛しているのでもない。ただ、文春の怒りに気持が重なっただけである。活字媒体の敗北…、しかし敗北は活字媒体だけではない。日本のマスコミ自体、とっくの昔に敗北している。実際、日本のマスコミは相変わらず、選挙が終わったら今度は、小泉将軍に敗れた悔しさを「小泉チルドレン」に向けて騒いでいる始末。これではテレビを詰る資格はない。今からでも遅くはない。メディアとして、日本の将来にとって何を発し続けなければならないかを真剣に考えていかなければならない時が到来したようである。

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2005.09.29

「NYから眺めたフジヤマ」byマイク・アキオステリス(日本通米国ジャーナリスト)(39)  杉村太蔵議員の記者会見に思う

自民党本部で27日、最年少で当選した杉村太蔵議員の記者会見が行われた。なんでも、若きセンセイの“正直すぎる発言”が国会議員にあるまじき云々…ということらしい。こんなことぐらいで記者会見とは、記者会見の公共5性も霞んでしまうようだ。日本ではタレントの恋人宣言まで記者会見である。これも、日本のメディアは記者会見の主旨・内容より“話題性”を重視するからであろう。この日もさっそく、百人を超える記者やリポーターたちが押し寄せた。大物政治家並みの規模である。マスコミが熱くなるのも無理はない。マスコミにとっては、これほどの“おもろいキャラクター”は吉本のお笑い軍団にもいないはず。なるほど、「料亭に行ってみたい」に始まる数々の“放言”は、タイミング的にも具合の悪い発言である。だが、それを記者会見で“お詫び”することの方がもっと、嘆かわしいことだ。昔、ドイツでポルノ女優が国会議員に当選した。彼女は国会で数々のパフォーマンスを披露し、国民の関心を「政治」に誘導した。それに比べればなんでもないことだ。杉村議員は当初、衆院選に出馬するという“経験”をしてみたく立候補したのだが、間違って当選してしまった。衆院選に出馬するところまでは想定していたのでそこまでは、それなりの心の準備もしていただろう。ところが、いきなり“当選議員”になってしまったから大変、どう対応していいかもわからないまま、マスコミに取り囲まれてしまった。国会議員としての取り繕い方も言葉もしらない。杉村議員は興奮し、戸惑いながらもありのままの、正直な意見を語った。つまり、日頃の感想、本音を語ってみせたのである。「料亭に行ってみたい」「国会議員の給料は2500万円」「議員宿舎は3LDKで楽しみ」など、正直すぎる言葉を元気よく披露した。純粋で正直な若者だったのである。普通のセンセイ方なら、そんなことを思っていても一旦、それがどのような印象で受け止められるかを見回し、優等生的な言葉を繰り出すはずだ。人間、腹の中では「あの野郎!」と思っても、本人を前にすると、「元気ですか。がんばってください」と、もっともらしい言葉で取り繕うものだ。とくに日本では、場の雰囲気、立場をわきまえることが品位、礼儀とされている。そんな社会に照らすと、杉村議員の言動はすべて「???」となって当然だろう。実際、「なぜあんな奴が国会議員になったのか!」と、ブーイングである。コメンテーターや評論家といわれる似非センセイたちまでが、杉村議員の軽さを射っている。彼を攻めるのは酷である。「不倫メール」や「お菓子を摘みながら語れる政治」の言動がもっと、軽いものであるはず、ましてや、彼の当選は比例選挙制の弊害であり、杉村議員を公認した自民党の責任でしかない。それを…、元気な若者を型に押し込め、枠にはめるようとして「お詫びの記者会見」を開かせるとは、なさけないことだ。ニートやフリーターが犇く日本社会にも、彼のような元気な若者がいるとわかっただけでも心が和んでくる。一若者が衆院選に候補する「経験」を味わいたく、それを実行に移した行動力や勇気には、『頑張れよ!』の一言もかけてあげたくなる。そして、彼にはもっと、若者らしき本音、若者たちの考えを代弁してほしいと思っている。若き日は数々の失敗、失言の連続だ。人間は失敗を経て成長し、その失敗から学び、悟っていく。杉村議員の資質、可能性はまだまだ「?」かもしれないが少なくとも、26歳の“志”に石を投げつけることだけはやめてほしい。なにより、マスコミの餌食にはならないでもらいたい。小泉首相の変人度に比べればまだまだ、杉村議員の方がまとものような気がしてならないからだ。


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2005.09.24

「NYから眺めたフジヤマ」byマイク・アキオステリス(日本通米国ジャーナリスト)(38)  「イケメン」と「美女」の国

「自民党をぶっ潰す」で始まった衆院選は、自民党の圧勝で幕を閉じた。一方、「日本をあきらめない」と、勇ましい掛け声で挑んだ民主党は惨敗、岡田党首などは“忘れ去られた人”となってしまった。選挙は結果がすべて、5小泉大将の強引なやり方に首を傾げていたマスコミも、選挙戦がおわった途端にこぞって、小泉チルドレンたちに照準を合わせている。“26歳センセイ”のトンチンカンな発言、不倫メールで“女をあげた”マドンナ・センセイのお色気、ピンクのスーツで登院した“ピエロ・センセイ”など、劇場型選挙戦に劣らない“おもろい場面”を繰り出している。そんな中、お通夜の雰囲気も薄らいできた民主党は17日、東京都内のホテルで両院議員総会を開き、民主党所属国会議員192人が、代表戦の無記名投票を行った。その結果、前原氏が2票差で新代表に選出された。新代表に選ばれた前原氏は、「国民の信頼を取り戻し、民主主義を機能させるため全身全霊で政治生命を賭けて挙党一致で臨みたい」と決意を語った。民主党のことを忘れていたかにみえたマスコミもさっそく、若き新党首に焦点を合わせ始めた。ところが、その取り上げ方がなんとも、ふざけている。ある大手新聞(インターネット版)は、前原氏が新党首に選出されたことを報じる第一報にて、「民主党の新党首は『イケメン』」との見出しを付けていた。民主党の新党首が男前かどうかは、井戸端会議での「雑談レベル」。大新聞が見出しに付ける言葉ではない。この見出しを付けた記者は多分、新党首としての資質や能力よりも、男前かどうかの方がより、重要なポイントだったのだろう。週刊誌に至っては「前原新党首の夫人は民主党一の美人妻」と、夫人の「美人度」に照準を合わせている。片山さつきセンセイは元ミス東大だの、小池百合子センセイの足が美しいだのと、マスコミはセンセイ方の容姿に関心が注いでいる。ならば、日本で政治家になるにはまず、人格や信念より容姿…、いや、政治家だけではない。日本社会では「イケメン」や「美人」が紋章のようになっている。実際、中身のない人間でも容姿さえ整っていればそれだけで、騒がれる。そればかりか、日本のマスコミは凶悪事件の被害者までも、「美人OL殺害される」、「美人女学生拉致される」などと、美人という言葉をやたらと掲げる。美男・美女の印象は個人的なもの。容姿に拘る視点は「脚色」であり「形容」である。一記者の先入観だけで「イケメン」「美女」と配するのは一種の、差別的視点である。報道とは事実、真実に目を向け、その裏づけとなる真相を追求していくもの。これらはジャーナリズムとしての基礎知識、記者の遵守事項であるはずだ。今回の選挙を「劇場型」にしたのはその実、マスコミである。日本のマスコミは真面目な視点で取り上げなければならない問題をも「おみしろいアングル」で迫り、有権者受けする話題だけを掻い摘んで報じているようだ。その結果、国民たちはマスコミに飼いならされ、何が真実で、何が実態かさえわからなくなっている。日本のマスコミにとっての選挙とは、日本の将来を計る舞台ではなく、国家公認の一大エンターテイメント、なのである。報道とバラエティーの境界がなくなっていく社会…、そこでは、「おもしろければ何でもいい」との意識だけが渦巻いている。このことに気付かない輩たちがジャーナリストとして跋扈している間、日本のマスコミは世界から、「幼児扱い」なのである。

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2005.09.19

「NYから眺めたフジヤマ」byマイク・アキオステリス(日本通米国ジャーナリスト)(37) 世界で最も「性に大らかな国」 

警察の不祥事が相次いでいる日本だが、ここにきて、警察官による“性的事件”が急増している。滋賀県警は16日、取り調べ中の女性にわいせつな行為をしたとして、県警高島署刑事課の巡査部長、今村円容疑者(34)を特5別公務員暴行陵虐容疑で逮捕した。5月には、四谷署組織犯罪対策課の警部補(52)が、刑事事件で逮捕された後に起訴猶予処分を受けて釈放された20代の女性とホテルで性的関係をもった。6月には警視庁組織犯罪対策5課警部補、今井浩之容疑者(44)が、覚せい剤取締法違反の罪で起訴拘置中の20代の女性と取調室で性的関係をもち、特別公務員暴行陵虐容疑で逮捕されている。また、8月には大阪府警の警部補、赤池章好容疑者(49)が、覚せい剤取締法違反容疑などで取り調べ中の女性にわいせつな行為をし、逮捕されている。極めつけはなんといってもこれだろう。神奈川県警泉署巡査長の江渕剛(42)が合鍵を使って留置室に入り、殺人罪などで留置中の女性容疑者(36)と、計7回にわたり性的関係をもった事件である。彼は横浜地裁から懲役3年(求刑懲役5年)を言い渡された。警察官が留置中の容疑者と性的関係を及ぶとは、呆れたものである。だが、これとて氷山の一角に過ぎない。未成年者へのわいせつ行為や痴漢など、マスコミに報じられない事件は数えられないぐらいの量に達している。一般人に至っては、大学教授から政治家、映画監督、タレント、公務員、大手企業社員、医師や弁護士まで、社会的地位、人格を有している男性たちがこぞって、“この手にわいせつ行為”で逮捕されている。でも大丈夫だ。日本では、少々の性的犯罪は“出来心”として大目に見てくれる。実際、初犯での痴漢などは、不起訴か罰金刑で釈放される場合が多い。先進国の中で日本が最も、性的犯罪に寛大な国というのも、頷ける。8月、ダラスからボストンへ向かうデルタ航空の機内で、隣に座った女性に猥褻行為をしたとして、加害者である男(会社重役55歳)に懲役7年の刑が言い渡された。男は隣の席で眠っている女性(22歳)に毛布を被せてシートベルトを外し、さらにズボンのボタンをはずして女性の秘部を触った。これに気付いた女性は、男の手を振り払って機内後部へ逃げ、客室乗務員に説明した。機内には仕事を終えて帰宅途中だった米シークレット・サービス員4名が乗り合わせていたことから、乗務員は彼らに報告。男はボストン空港で待ち構えていた警察に、逮捕された。彼は「こんな女性は知らない」と主張したが、手の皮膚細胞に被害者女性のDNAが大量に付着していることが判明、これが動かぬ証拠となった。男は懲役刑に加え、出所後も2年間は警察の監督下に置かれる。隣席の女性に手を出した刑が懲役7年、保護観察2年とは、日本では考えられない重過ぎる刑である。これと同じような事件が日本で起きた場合、日本の裁判所は懲役1~2年…、いや、執行猶予となるだろう。無理もない。日本という国では男性のシンボル、女性の陰部を形とった木彫りが“神様”として祀られ、それを女性アナが撫でながら茶の間に紹介する。そればかりか、未成年者の売春が“援助交際”として堂々と行われているに至っては、これほど性に大らかな国は他にないようだ。ギリシャやローマが滅びる時にも「性の乱れ」が社会を覆ったが、「女の裸に羞恥心を感じなく社会は末世の兆し」といわれている。日本の末世がそこまで、きているようだ。

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2005.09.08

「NYから眺めたフジヤマ」byマイク・アキオステリス(日本通米国ジャーナリスト)(36)外国人記者が見た衆院選

ニッポンの夏を「灼熱」に変えてしまった衆議院選もいよいよ、後4日を残すだけとなった。日本のメディアは連日、衆院選関連ニュースを垂れ流している。“絶妙すぎるタイミング”で不倫メールまで飛び出す始末。まさに、仁義な65き戦いである。日本の報道をみているどうも、選挙報道というよりエンターテイメント性に照準を合わせているようだ。一人でも多くの有権者に名前を覚えてもらおうと必死で叫んでいる候補者がいるかと思えば、反対に、マスコミが宣伝してくれる候補者もいる。日本で政治家を目指そうとするなら何が何でも、“有名人度”を上げなければならないようだ。実は、このことを一番わかっているのが他でもなく、小泉首相であろう。彼はマスコミが騒いでくれそうな有名人に目を付け、話題を振りまいてくれる「マドンナたち」を揃えたのだから、さすがに類まれなる演出家であり役者だ。今回の衆議院選挙は米メディアも多大な関心を注いでいる。無理もない。ブッシュ政権にとって、「ミスター・コイズミは都合のいいパートナー」であるからして、なんとしても勝ってくれなくては困るのである。ドイツも18日、総選挙を控えている。だが世界は、ドイツよりも日本の選挙に関心を注いでいるようだ。ニューズウィークの最新号に掲載された、「在日外国人記者が見た衆議院選」を簡単に紹介してみたい。英国・ガーディアン紙のジャスティーン氏:「それにしても今回の選挙は、まさに『ワイド・ショー』だ。元ミス東大候補のヘアスタイルは時代遅れか、佐藤ゆかりは不倫したのか、小池百合子は小泉と結婚するのか、そんな話題が毎日、テレビや雑誌を賑わしている」。韓国・朝鮮日報紙の金氏:「今回の選挙は日本にとって混乱ではなく発展のチャンスだと思う」。ドイツ版・ファイナンシャル・タイムズ紙のマーティン氏:「日本はドイツよりも急速な改革に貪欲だと思う。戦後世代はすでに日本を変えつつある。問題は政治が社会変化についていけるかどうかだ」。台湾・中国時評紙のヤン氏:「岡田代表は記者の目を見ようとはしない。目をみない岡田代表はすでに敗者だ」。米国・ロサンゼルス・タイムズ紙のブルース氏:「小泉首相のやっていることは議会制民主主義の選挙では当たり前のことだ。選挙の争点を限定し、自分の選択を支持してほしいと訴える。これが勝負の半分を占める」。インドネシア・コンパス紙のリチャード氏:「日本は『強調』の国だ。一人の首相が国を変えることはできない。だが小泉のアグレッシップな戦略は、ほかの首相ができなかったことだ」。中国・新華通信社のウー氏:「民主主義は反対なら反対をいえはだ。だが、小泉自民党では反対すれば追放される」。オーストラリア・シドニー・モーニング・ヘラルド紙のデポラ氏:「小泉首相とジョン・ハワード豪首相には、明らかな共通点がある。2人とも自分にとって戦いやすい焦点を見つけ、自分の主張に拘るやり方を心得ている」。香港・サウス・チャイナ紙のシュリアン氏:「日本の選挙報道は味気ない。スタジオに評論家を並べ、街頭の群衆を映すだけ。報道の既成概念にとらわれず、独自のやり方で視聴者を争点に引き込むことが、苦手のようだ。ヨルダン・国営ペトラ通信のカリドュン氏:「誰が勝っても日本の企業政治は不変だ」。小泉一座が演じる日本の劇場型選挙戦に、世界からも熱いまなざしが注がれている。  

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2005.08.28

「NYから眺めたフジヤマ」byマイク・アキオステリス(日本通米国ジャーナリスト)(35) 衆議院選という「劇場型ドラマ」

一週間の出張から帰った。溜まっていた郵便物のなかに日本から届いた小包があった。小包には日本のTV番組を録画したビデオや週刊誌など、雑誌が十冊ほど入っていた。日本の友人が毎月、送付してくれる。ありがたいことだ。日本の“今の模様”を知るにはインターネットよりも週刊誌やTV番組の方が断然、わかりやすい。夕方、ニッ6ポンの二週間を眺めた。今回はどこのメディアも衆議院選をメインに取り上げているが相変わらず、小泉首相を主役に据えては、「ぶっ潰す」「刺客」「造反組」「マドンナ候補」など、好奇心を刺激する活字を繰り出し騒ぎ立てている。日本のマスコミは総じて、選挙戦を「ドラマ」に仕立て上げようとしているようだ。それも小泉首相を「織田信長」に重ねての「劇場型ドラマ」である。でもなんとなく、すっきりしないものを感じる。郵政に反対した議員はあくまでも、一国会議員としての判断で行動したに過ぎない。それがいつのまにか、裏切り者、造反組に置き換えられている。多数決で否決された以上、その後は政策をもって説得するか、あるいは、法案をやり直すかしかない。それを窮地に追い込むやり方にて、「どっちを取る!」と迫るとは、こんな乱暴なやり方が罷り通るのならば民主主義も、国会も必要ない。ところが国民はこれを支持している。それも、そこまでしなければ「真の改革」が出来ないという見解からの支持というより、一見、信念を貫いているかに映る小泉首相の頑さと負けん気に「好感」を感じての支持である。造反組はさぞかし、悔しい思いだろう。しかたがない。政治は演出、ショーの要素を多分に含んでいるから千両役者の小泉首相にはかなうまい。小泉首相の演技に比べると亀井静香議員のイメージは脇役どころか、悪徳代官のそれである。民主党の岡田党首に至っては大根役者のレベルだ。実際、小泉首相の「自民党をぶっ潰す!」「反対するものは容赦しない!」との啖呵に国民の半数以上が喝采を送っている。さらに、経団連も小泉改革を支持、米マスコミもこぞって、小泉首相の改革路線にエールを送っている。ブッシュ大統領あたりはさぞかし、郵政を踏み絵に頑張っている小泉首相を頼もしくも、心強いパートナーと思っているだろう。“変人”と言われる小泉首相がこれだけ支持される背景には日本の異質さ、日本特有の「生理」があるようだ。日本の有権者は外見、イメージ、知名度などで判断する傾向が強い。日本の選挙では「弔い合戦」なる言葉が動員されるほどに、心情的、感情的なものが左右する。こうした特性を考えると今のところ、小泉首相の賭けは当たったようだ。しかし“刺客”として鳴り物入りで送り込んだ候補者の顔ぶれをみると…、そこには改革もなければ政策ない。マドンナ候補者の一人である料理研究家のセンセイは、「お茶を飲みながら政治を語る、そんな政治があってもいいと思います」と言う始末。広島から立候補したホリエモンは「親に育ててもらった分はすでに、それ以上の金銭でお返ししている」と、親の恩を金銭の損得勘定で論じる人間性。この程度の刺客を連ねて改革を叫んでいるようでは到底、本物とはいえまい。真の改革とは、国民をして「これではいけない!」との危機感に煽られる現象である。残念ながら今の日本には、そうした危機感はどこを探しても見当たらない。

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2005.08.20

「NYから眺めたフジヤマ」byマイク・アキオステリス(日本通米国ジャーナリスト)(34) 「8月15日」と小泉研究 

8月15日、九段の靖国神社には炎天下の中、若者から遺族、戦友まで幅広い世代が訪れ、参拝者は過去最高の20万5千人(神社調べ)に達したという。ここ数年で最も多かったのは小泉首相が8月13日に参拝した平成1243年の12万5千人。郵政解散の中、靖国神社への関心が高いことをうかがわせた。閣僚では尾辻秀久厚生労働相と小池百合子環境相が参拝。超党派の「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」の前衆院議員23人と参院議員24人(ほかに代理が衆参両院合わせ83人)のほか、石原東京都知事、安倍晋三幹事長代理らも個別に参拝した。ところが靖国神社に最も想いを馳せている小泉首相の姿はなかった。小泉首相の“頑固さ”を信じていた国民の多くがある種の、失望感を抱いたに違いない。小泉首相の靖国参拝に関しては中国や韓国など、アジアから猛烈な批判があがっている一方、国内でも賛否両論の声が渦巻いている。それだけに、日本の首相が「8月15日」に参拝することで生じる問題はアジアとの関係だけでなく、日本の印象、日本の器量が問われる踏み絵ともなる。さらに、衆議院選挙を前に靖国参拝が「凶」と出る可能性もなくはない…、小泉首相もさすがに、8月15日は避けなければならなかったようだ。小泉首相はこれまで、「日本の平和と繁栄は戦争の時代に生きて、心ならずも命を落とさなければならなかった方々の尊い犠牲の上に成り立っている」と述べ、靖国参拝を頑なに貫いてきた。さらに、今年は終戦60周年を迎える年、8月15日に参拝しなければそれこそ、「知念」で涙ながらに誓った特攻隊員との約束が反故になる。これでは小泉純一郎という政治家の印象が色褪せ、「一度言ったことは絶対に実行する」との、変人首相のイメージさえも崩れかねない。彼が首相に就任した時、“力強い言葉”で「8月15日には絶対に参拝する!」と言い切っている。小泉首相の靖国観は一貫して、「人間としての信念」「国民としての道義」「日本国首相としての義務」との信念を掲げてきたはず…、ならば今までの言葉はなんだったのだろうか。断っておくがなにも小泉首相が靖国神社に参拝する、しないという問題を論じようとしているのではない。ただ、「口にしたことは絶対に守る」、との看板を掲げてきた小泉首相の言動はその実、政治的演出でしかなかったような気がしてならないのである。もしや、国民たちは小泉首相に錯覚しているのではないだろうか。短いフレーズで語る無駄のない言葉、的確な表現力、コピーのような名セリフは政治家の発言というより、観客を酔わせる役者のそれに似てなくもない。独裁者ヒトラーがそうであったように冷酷で我侭な主張は時に、「頑な信念」に映り、手段をも選ばない負けん気の強さは「頼もしき実行力」に感じられる場合がある。実際、今までの小泉首相の言動を振り返ってみると、当初は唸らされる政策や言葉も時が経つにつれ、「あの言葉は何だったのだろう?」