2006.02.28

「NYから眺めたフジヤマ」byマイク・アキオステリス(日本通米国ジャーナリスト)(50)「政治家のテレビ出演」  

50日本中が「堀江メール」でざわついている。そしてその矛先は、民主党に向けられたようだ。思えばこれほどの“大逆転”もめずらしい。ライブドアが東京地検から家宅捜索を受けた時、武部幹事長・小泉政権は確実に、窮地に追い込まれると思ったものだが…、そこに民主党から「堀江メール・カード」である。小泉純一郎という人はつくづく、運の強い人、鮮やかな運である。堀江メールが「ガセネタ」となってしまったことで自民党は一転、責められる側から責める側に立つことになった。ホリエモンも今頃、拘置所の中で「政治家はなんとバカな奴らだ」と、大笑いしていることだろう。それにしても、「堀江貴文」という若者もたいしたものだ。ホリエモンが近鉄球団買収に名乗りを上げてからというもの、彼の言動は“社会現象化”し、今なお、日本国の主人公を演じている。今や日本中のマスコミが堀江メールに関して“必死”に取っ組んでいるからして、当コラムにて“似たような意見”を論じても白けるだけだ。それに、世の評論家センセイたちもこぞって、“我が論”を得意気に披露しているに至っては、堀江メールについてつべこべ言うこと自体、同じ穴の狢となってしまうので、視点を変えることにした。今回、堀江メール騒動に接して感じたことは、日本の政治家たちのレベルである。それは、堀江メールを見抜けなかったとか、裏づけを取らずに発表したということではなく(こんなことは政治家としての常識、基本中の基本であるからして指摘する気にもなれない)、それ以前の「レベル」である。2月28日の朝、民主党のセンセイ方十一人が「みのもんた」司会の「朝ズバ」なるワイドショーに出演し、なんともいえない“醜態”をさらしていた。新聞のテレビ欄には『民主党議員が大集合!』『永田氏は辞職すべきか!』『執行部の責任問題は…謝罪だけで十分なのか!』『党再生の行方を生激論!』と、語尾にやたらと「!!!!!」を付けては、ワイドショーらしい味付けを施していたのがなんとも、おかしかった。さらに、番組の内容はあまりにも、お粗末であった。これでは、そのへんに転がっているタレント兼コメンテーターに語らせた方がましである。いくら日本中が堀江メールで揺れているとはいえ、日本の二大政党を担っている民主党の、それも民主党の明日を背負って立つべき若手議員たちが雁首そろえて恥を披露している。なにより、この名司会者?は、彼らのレベルをしっかりと見抜いているらしく、自分がさも“国民を代表して”いるような面と口調でセンセイ方に質問をぶつけていた。そこには、「朝ズバ」なる番組を少しでも印象付けようとする意識、自分の存在を巧みにひらかさんとするパフォーマンスが渦巻いていた。そんな雰囲気の中、議員バッチを付けたセンセイ方が競いあうようにトンチンカンな言葉を発した。その光景はまさに、滑稽のなにものでもない。テレビでの発言は場慣れした経験がものをいう。ましてや、自分たちが思っている意見やメッセージを、パフォーマンスと機転を織り交ぜて喋りまくる「タヌキのような司会者」を相手に伝えることはほとんど、不可能に近い。ましてや、それを伝えられる実力など、ないに等しいセンセイ方である。日本の政治家たちはテレビに出演して“顔を売る”ことに必死である。その結果、バラエティー番組からクイズ番組、お笑い番組にまで担ぎ出されては、国会議員という“タレント”を演じている。TV局が政治家を担ぎ出すのは何も、日本の政情・将来を見据えてのことではない。ただ、こうした騒動がおきた場合、国会議員のセンセイ方は“当事者”となるからして、番組は盛り上がり、視聴率があがる思惑からである。いうなれば、政治家のセンセイ方は、マスコミに踊らされ、メディアに媚びているのである。国会議員のテレビ出演が増えていくほどに、日本の政治も益々「劇場型」となっていくようだ。

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2006.02.08

「NYから眺めたフジヤマ」byマイク・アキオステリス(日本通米国ジャーナリスト)(49)田原総一郎氏の「脇の甘さ」

50  ライブドアの堀江社長は「サンデープロジェクト」(朝日系)などのテレビ番組に出演し、刺激的な自説を繰り返してきた。堀江社長がサンデープロジェクトに出演した時、田原氏より堀江社長の方が一枚も二枚も“うわて”のように感じられた。これはなにも、堀江社長の方がまともであったということではない。田原氏は、堀江社長の繰り出す自説や見解を「ジャーナリストとしての良識」にて分析せずして、堀江社長の自説に共感する論調であった。そこにはジャーナリストの視点とはほど遠い…、いや、彼はジャーナリストではなく評論家、それも政財界人脈からもたらされる情報や先入観をして、自分の考えを軸にして判断を急ぐ評論家…なのである。その結果、「人の心は金で買える」とほざく若者を、時代の寵児として見つめてしまうのだろう。なさけないことである。この手の番組がバラエティー番組やワイドショーならまだしも、政策・時事問題を検証する良識番組(?)である。さらに、番組の進行役が自称オピニオンともなれば、そこでの意見や自説は正当化され、さも「新しい時代の個性」であるかのように印象付けられてしまうのである。その田原氏がライブドア事件に関して産経新聞のインタビューに応じた。「(番組での取り上げ方には)大いに反省はあるが、当時、堀江容疑者のやっていることが犯罪だと見抜くのは難しかった」とし、「堀江容疑者が日本の古い体質を変えようとしたこと自体は間違いではない」とした上で、「ぼく自身も堀江容疑者に大いに期待していただけに、(今回の事件は)残念。かつて堀江容疑者を支持した人たちが道徳家みたいに彼を批判している。今は彼がどこで間違えたのかを冷静に議論することが大事だ」と述べていた(サンケイ新聞サイトより)。堀江社長を見抜けなかったのはなにも、田原氏だけではない。日本国の総理大臣、経済大国の日本経団連会長とて、「まさかホリエモンが…」であったからして、これについては、とやかく言うつもりはない。ただ、田原氏の言葉は一見、反省の弁を述べているように聞こえるがその実、行間から伝わってくるのは「田原総一郎らしき甘さ」でしかない。ライブドア事件をめぐる田原氏との一問一答の中で、「株式の百分割や時間外取引などを駆使した堀江容疑者の脱法行為は、卑怯(ひきょう)な行為を良しとしない日本の良識を破壊したとの指摘があるが」との質問があった。これに対し田原氏は、「マネーゲームや法のスキをつくこと自体は悪くはない」と答えている。また、ニッポン放送の買収については、「最後の護送船団と呼ばれるメディア業界に挑んだ彼には先駆者、挑戦者というイメージがあり、買収はできなかったが、世間は引き分けと見た。そして、『堀江は面白い男だな』と思った」と語っている。つまり、ニッポン放送を買収せんとした資金がマネーゲームで手にした金であろうと、また、法のスキをつくやり方で株式を取得しようと、それ自体は悪くないとの考えなのである。さらに、ホリエモンのイメージを“先駆者”“挑戦者”との視点にて分析し、そこにもっともらしき解釈までつけるに至っては、法律さえ犯さなければ何をしてもいいということだろうか。社会における健全な価値観や秩序は手段にて問われるもの、そのことを忘れているようだ。田原氏は他の番組でもよく、独断的な考えに照らして一方的な論を繰り出す。世間が納得しえないことでも自分が理解できたらそれでいいとする自信過剰と甘さゆえ、数々の失言を生じさせてしまうようだ。過去、田原氏の言葉に右翼暴力団たちが絡むのも案外、こうした「脇の甘さ」からではないだろうか。ホリエモンを錯覚させ、暴走させたのは他でもなく、良識のないマスコミであることを忘れてはならない。

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2006.01.22

「NYから眺めたフジヤマ」byマイク・アキオステリス(日本通米国ジャーナリスト)(48)日本社会の「有名人病」  

50 20日、朝日新聞のインターネット・サイトに、「『想定外』と新聞広告、堀江氏CM起用の八ちゃん堂」と、一風変わった見出しが掲載されていた。記事を読んでみると…、ライブドアの堀江社長をテレビCMに起用(CMは昨年12月まで)した「八ちゃん堂」という会社(冷凍たこ焼きの製造・販売業)が、九州地区の朝刊2紙に、「想定外」という広告を出したという内容である。同社の社長は広告の意図について、「堀江さんにとって、こうなるとは夢にも思わなかっただろうし、八ちゃん堂にとっても青天のへきれきだったが、これからもよろしくという消費者へのメッセージ」と話した。なるほど、同社が堀江社長を広告に起用したのは、「ホリエモン」の知名度にあやかろうと思ってのこと…、ところがその堀江社長が証券取引法違反で逮捕されるとあっては、企業イメージにキズがつきかねない。そこで、新聞広告を介して、「当社はライブドアとは無関係です」、と言わんばかりのメッセージを発した。ライブドアが家宅捜索された日が16日、その4日後の20日には早、新聞広告を打ち出したわけだ。敏速な対応である。それも、広告を出すに際し、堀江社長の専売特許である「想定外」という言葉を使うあたり、なかなかのものだ。たしか自民党の武部幹事長も、「堀江社長との関係はあくまでも、業務の流れにて関わった一接点にすぎない」と言っていたが、白ける話である。彼は群衆の前で「堀江社長は私の弟分」「日本を背負って立つ若者」と絶賛していたはず…、手のひらを返すにしてももう少し、気のきいた言葉があっただろうに。もっと露骨なのがテレビ局だ。多くのテレビ局がホリエモンに群がり、彼を競ってテレビに引っ張りだした。某テレビ局などは、堀江社長所有のジェット機に番組スタッフを搭乗させ、「マスコミ初の機内公開!」とはしゃいでいたのに…、それが一転して、ホリエモン叩きである。まあ、これが世にいう“社会の現実”というものだろう。それにしても堀江社長、他社の広告にまで出ていたとは…、わずか2年前までも“普通の青年”であった彼が一躍、IT時代の寵児として担がれ、マスコミに煽られるうちに「思い切り錯覚」してしまったようだ。そればかりか、ライブドアの広報担当の美人?秘書までが有名人として騒がれる始末。なんともふざけた話である。こんなにも“有名人”に弱い国は多分、世界でも日本ぐらいではないだろうか。実際、日本では一旦、マスコミで“おもしろい人物”と騒がれたらたちまち、有名人である。過去に、野球監督の妻というだけの女性が「有名人」として脚光を浴びるうち、衆議院選挙にまで出馬する有様。ところが、である。なんの取柄もない彼女が「テレビに出ている有名人」というだけで、四十万票以上を獲得してしまうのである。衆議院選挙に立候補した堀江社長も同じだ。なんとも恐ろしい現象だ。こうした現象もみな、マスコミのせい…、マスコミが生じさせた現象である。日本のマスコミは人物の資質や人格、価値観などは一切問わずして、おもしろければ何でもいいという風潮に浸かり、節操のないバカ騒ぎを繰り返している。その結果、弁護士がタレントになってCDを出し、なにが本職かわからない女性(叶姉妹という女性たち)がいろんなメディアに顔を出している。もっとひどいのは、“出たがりの金持ち連中”がテレビで得意気に悪趣味を自慢し、ホストや美容師までが“カリスマ”との紋章を付けて有名人の仲間入りである。マスコミに感化されて似非有名人に群がる国民たち…、ホリエモンという若者を麻痺させ、錯覚させたのは他でもなく、日本のマスコミであることを忘れてはならない。


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2006.01.17

「NYから眺めたフジヤマ」byマイク・アキオステリス(日本通米国ジャーナリスト)(47)「ホリエモン」を出現させた世間の罪 

東京地検特捜部は16日、「ライブドア」が虚偽の事実を公表し株価をつり上げた疑いで、同社などを家宅捜査し50た。東京地検特捜部の捜査に日本中のメディアが、その間における「ライブドア=堀江社長=ホリエモン」に対する疑問、疑惑、矛盾などを「ここぞとばかり」に報じ始めた。その報道ぶりを見ていると、「ライブドア=堀江社長」に向ける国民の感情を代弁するかのような論調である。実際、どのメディアの報道をみても一旦は、頷ける内容に仕上がっている。そればかりか、記事の行間から「ざまあみやがれ!」「胸がスカッとした!」、といった声が聞こえてくるようだ。無理もない。近鉄球団買収に名乗りを上げた堀江社長はその後、ニッポン放送の買収、衆議院選挙への出馬と、あらん限りの話題を振りまきつつ一躍、IT時代の寵児に躍り出た。して、堀江社長の言動から繰り出される違和感、無礼な態度、日本社会にて受け継がれてきた伝統的概念や企業論理、秩序を無視したような振る舞い…、さらに、そこにやっかみ、ねたみ、憧れなどが加わったことで独特の、「ホリエモン観」を渦巻かせてきた。三十歳そこそこの若者が時価総額7000億円のIT企業グループのトップに君臨し、やりたい放題なことをやっているイメージを振りまいてきた印象をして、日本中の誰もが「ライブドアに関しては一言、言いたい」との心情になってしまったようである。それだけに、日本のマスコミにとってこれほどの“価値あるニュース”はそうそう、ないだろう。過去のリクルート事件やロッキード事件といったものとは比べ物にならないほどの…、日本列島という大スクリーンで上映されなければならない一大エンターテイメント事件である。でも昨日(16日)と今日(17日)は、新聞やテレビだけがホリエモン協奏曲を奏でているが、明日あたりから週刊誌軍団が本格的に乗り出してきて、「ライブドア=ホリエモン」の知られざる一面をこれでもか、これでもかと繰り出してくるはず。それも一見、ごもっともと思える論調の“似非良識”で大合唱をなるだろう。実際、東京地検の家宅捜査に早速、「新興企業にありがちな脇の甘さを感じる」(鉄鋼メーカー幹部)。ある大手証券幹部は「ザル法を逆手に取って、やりたい放題だった」と吐き捨て、ジャーナリストの大谷昭宏氏は「国としても企業倫理の無視には歯止めをかけなければならない。今回の捜査は、いい意味での国策強化の意思表明だ」。帝京平成大情報学部教授の鳥井守幸氏は「家宅捜索は、ルール無視、常識外れの手法がいつも通用するとは限らないということを示したものではないか」と分析。経済アナリストの森永卓郎氏は「東京地検は一石を投じた」と語っている。なるほど、堀江社長の言動には多くの違和感を覚えるし、ライブドアが今日に至った過程、手段には批判されるべきことも少なくないが、でも、彼を時代の寵児に祀り上げたのはその実、マスコミをはじめとする“日本の社会”であったはず…、彼を「セレブ族」や「ヒルズ族」の雄と持ち上げた背景には、「利益優先」「拝金主義」を煽る空気があったからである。堀江社長を射る前にまず、“ホリエモン”のような若者を出現させた社会の罪、彼をスターに仕立て上げて躍らせたメディアの罪、彼をここまでのさばらせた世間の罪、そして、ライブドアという企業に群がった関係者や企業の罪なども裁かれるべきであろう。さらに、この程度の若者を自民党が肩入れして立候補させ、その選挙応援に小泉首相の右腕と自認している武部幹事長までが駆けつけ、「堀江社長の若き情熱とアイディアで日本を変えていきたい」とのたまっておいて何を今更…、彼らも世間もみな、堀江社長に石を投げつける資格など、ないのである。今後、ライブドアに関する容疑は徹底的に糾明されなければならないが、だからといってそれが、「出る杭は打たれる」との、“日本式制裁”であってはならない。(冒頭写真は、05年大晦日、日本レコード大賞新人賞のプレゼンターを務めた時のもの)

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2006.01.08

「NYから眺めたフジヤマ」byマイク・アキオステリス(日本通米国ジャーナリスト)(46)「マネックス証券」の“企業モラル”

長い不況のトンネルから抜け出したかに見える日本経済、株価も昨年後半から一斉に上昇している。マスコミも連日、“株式投資を煽る”かのような記事を垂れ流し、一億総投資家の狂乱を発している。経済誌はもちろん、写50真週刊誌、女性誌までもがブームに乗り遅れまいとして、株関連記事を躍起に繰り出している。その様子は、バブル期の乱舞を彷彿させる。「プチ株でデート代を稼ぐ」、「女性の感性が選ぶ上昇する株一覧」、「百万円を一億円にした主婦」…、これだけ大きな音で奏でられたら、多分にその気になって当然だろう。して、若者から老人までが、株式投資に群がる。昔は株への投資は玄人筋(経済知識・株知識に精通している人たち)が主だったが、今は素人でも簡単に株が売買できるようになった。インターネットによる株取引が玄人と素人の境界をなくしたからである。本屋で「株投資入門」などのマニュアル書を購入し、ネット証券に登録するだけで、いっぱしの“投資家”になれる。して、コンピューター・ゲームをしているような感覚でキーを操作すれば、たちどころに株の売買ができる。スロットマシーンよりも簡単だ。昨年中旬からの株価上昇率は30~40%、株投資を始めた大部分の人が大儲けしたことだろう。PCのキーを叩くだけで数十万円、数百万円…、なかには何億円もの大金を手にした人もいる。一生かかっても貯められない大金を手にした幸運者?たち、彼らの有頂天がブームをさらに扇いでいく。汗して働くことが益々、バカらしくなって来る世の中だ。そんな中、インターネット専業証券のマネックス証券グループが、10万円を元手に小中学生にネットを通じた株式売買を体験してもらおうと「株のがっこう」を開校したという。元手の10万円はマネックス側が提供し、現金を参加者の口座に振り込んで株取引に臨んでもらうのが目玉で、生徒募集に約600人が応じた。さらに、1月下旬に始める株取引に備えて東京証券取引所で開いた授業には、課題の作文で選ばれた小5から中3の子どもと保護者ら28組が参加。授業は「お金の上手な増やし方」や株の売買の仕方といった基礎編から、日本マクドナルド・ホールディングスやモスフード・サービスの収益や株価の推移を例に投資のポイントを学習する実践編まで、本格的な内容だという。この報せに一瞬、「日本の社会もここまで麻痺してしまったのか…」と、唖然となった。なにも、子どもたちに「株の勉強」や「お金の上手な増やし方」を教えることが悪いというのではない。また、株式投資は立派な資産運営手段の一つであるからして、それ自体を否定しているのでもない。ただ、いくら「未来の顧客」を養成するためとはいえ、まだ十歳前後の子どもたちに“バクチ場”の醍醐味を味わってもらうよう誘導する企業戦略?はいかがなものかと、疑問を感じたのである。アメリカにも「中毒させるには早い方がいい」との言葉があるが、お金に執着するガキたちが増え続ける…、想像しただけで背筋が寒くなる。子どもが父親に、「お父さんは株で幾ら儲けたの」と聞いてきたら父親は、「子どもはそんなことに関心をもたないでいい。勉強しなさい」と叱るのが、真の教育であるはず。それを早くから“株投資”へ誘導するとは…、それも先生役を務める御仁が内藤忍(ないとう・しのぶ)マネックス・ユニバーシティ社長というから呆れる。トップが麻痺しているようでは企業モラル云々も、あったものではない。マネックス証券の誰がこんな企画、戦略を考え出したのか知らないが、日本の子どもたちの精神を蝕むようなことは絶対やめてもらいたいもの…、いや、証券会社だからこそ、日本の子どもたちの将来を考えるべくして、子どもたちに「人生には金よりもっと大切なものがある」ことを教えていかなければならないはず、それが「企業モラル」というものである。(写真は、今週発売の『週刊大衆』記事)

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2005.12.20

「NYから眺めたフジヤマ」byマイク・アキオステリス(日本通米国ジャーナリスト)(45)「芸能ネタ」好きな日本のマスコミ 

5012月20日午後(2時過ぎ)、読売新聞のウェブ・サイト「YOMIURI ONLINE」にアクセスした。すると、ウェブ玄関のメイン・サイトに『姉歯元建築士1か月ぶり“帰宅”…捜索に立ち合い(13:31)』との見出しが掲げられていた。20日から欠陥マンションの捜査が一斉に始まったことの、関連ニュースである。続いての見出しが、『旧日債銀への損賠訴訟、元会長ら2億円支払いで和解(13:40)』『未払い分手当83万円、在韓被爆者に支払え…長崎地裁(13:51)』『触った!の声、出勤途中の警官らに取り押さえた男が死亡(14:08)』と続いた後、『村上里佳子さんと渡部篤郎さんが離婚(11:17)』の見出しがあった。離婚という言葉にすぐ、“芸能記事”とわかった。ところが、芸能音痴の私は「村上里佳子、渡部篤郎」なるタレントが誰だか知らなかった。でも、“天下の読売新聞”がウェブ・サイトのメインに掲げた記事ゆえ、それなりのニュース・バリューはあると思い、サイトを開いた。記事の内容は、「タレントの村上里佳子さん(39)と俳優の渡部篤郎さん(37)が離婚したことが20日、わかった。同日会見した渡部さんが19日に離婚届を提出したことを明らかにし、『自分が仕事に夢中になるあまり、家庭とのバランスが取れなかった』と話した。2人は94年に結婚していた(2005年12月20日11時17分 読売新聞)」とあった。欠陥マンションで揺れる師走の忙しい時期、タレントの離婚話に付き合っていられない。正直、がっかりした。タレントの離婚が重要なニュースかどうかは別にして、大手新聞の玄関サイト・メインページには掲げられない内容である。なにも芸能関連のニュースがいけないというのではない。ただ、サイト入り口メイン・ページ上段に並べられる見出しともなれば、各ジャンル別(社会・政治・国際・経済・文化)のニュースの中から重要度の高いニュースが優先的に選択されるべきもの…、この手の芸能ネタは「芸能欄」か、或いは、「TV・文化欄」「話題」のジャンルにて報じるのが常識である。ウェブ・サイトでのニュース配信とて、活字媒体の編集手順と同じであるはず…、関係者たちはどの情報を優先的に配信し、どのニュースをどう仕分けしていくか、慎重に向かい合わなければならない。少なくとも、この程度の芸能ネタを日本有数の大手メディアともあろうものがウェブ・サイト入り口のメイン・ページに掲げるとは、情けない限りだ。無理もない。日本のマスコミ関係者の多くが、芸能ネタは重要な情報ネタと錯覚しているらしく、それなりのバリューに値するニュースと信じているようだ。こうした傾向は読売だけではない。他のメディアも似たり寄ったりだ。今日のインターネット時代、社会はリアルタイムで動いている。そしてそこでは、ありとあらゆる情報が行き交っている。それだけに、大手メディアと名乗り続けたい以上、配信されるニュースや情報は常に、社会的重要度、国民生活との関連度、そして、知る権利と知らせる義務に照らして報じられなければならない。こうしたメディアの常識、ジャーナリズムの良識が失われた結果、重要な出来事・事件までも「エンターテイメント型報道」となり、「劇場型のニュース」に変形してしまう。いかに重要なニュースや貴重な情報とて、日本でしか通じないマスコミ関係者の“勝手”な水準とレベルで図られては、メディアとしての信頼が失われるだけである。

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2005.12.14

「NYから眺めたフジヤマ」byマイク・アキオステリス(日本通米国ジャーナリスト)(44)欠陥マンション騒動と「自己責任」

日本では今、「欠陥マンション」問題で大騒ぎになっている。衆院国土交通委員会は14日午前、構造計算書を偽造した姉歯秀次元1級建築士(48)ら4人に対する証人喚問を始めた。姉歯元建築士は最初に構造計算書を偽造したのは98年に施工された東京都内の分譲マンションだと証言。偽装を始めたきっかけについては、木村建50設・元東京支店長の名を挙げ、「『鉄筋を減らさないと仕事を一切出さない』と言われ、やむをえずやった」と述べた。そして、「住人、国民のみなさまに大変なご迷惑をおかけしたと深く反省しています」と頭を下げた。彼の謝罪が本心からなのか、それとも、場における形式的なそれなのかはしれないが、今回の問題は『深く反省している』という言葉ではすまされない問題…、重大な“事件”である。耐震偽装問題が発覚してからというもの、日本のマスコミは一斉に、姉歯元建築士やヒューザーの小嶋社長ら、関係者たちの相関図、彼らの人物像、舞台裏、人格、人生、変人度…etc、重箱を突っつくように暴いている。まるで、人民裁判で袋叩きにされているような印象だ。しかし、彼ら関係者の罪と責任が明確に炙り出される以前にレッテルを貼ってしまうことには、疑問を感じる。なるほど、金儲けのためには手段を選ばない、それも、人命に連なることもいとわない“モラル無き輩”ゆえ、晒し者になって当然との論理も成り立つだろうが、責任の境界線と量をしっかり見定めてから、それに見合った厳格な罰が下されるべきである。いくら叩くだけの名分があり、自家用機をもっているにせよ、こうした問題を“劇場型”の報道にて大騒ぎするのはかえって、問題をわからなくしてしまう。今回、同事件に関わった関係者の所業はうわべの“皮”でしかなく、根はもっと深いところにある。少なくとも、業界の惰性、日本の社会構造など、長年にわたって蓄積されて来た“非常識”と“安易さ”の歪なのである。その中でも、「自己責任」「責任と義務」といった概念が完全に置き去りにされている。今回特に驚いたのは、あれだけ大きな“罪”を犯した姉歯元建築士が未だ身柄を拘束されず、マスコミの取材で堂々と喋っていることだ。もちろん、建築法違反の処罰は1年以下の懲役、50万円以下の罰金となっているゆえ、それを括れる法的根拠がないからでもあろうが、彼の罪と責任は大げさにいえば、「詐欺罪」「殺人未遂罪」が成り立つほど重きものだ。責任には義務が問われ、罪には罰がともなう。このようなことは彼らだけでなく、欠陥マンションを購入した入居者にも、国にもいえることだ。入居者たちの多くが、安くて広いマンションを求め、自己の判断にて購入したはずだ。それだけに、被害者であるとする入居者の立場はあくまでも、業者と入居者の間における問題…、入居者はいい加減な業者を選択した責任、業者側はいい加減なビジネスをやった責任を自ら受け入れなければならない。また、国が“入居者支援”との視点で乗り出すこと自体、責任をより曖昧にするものだ。なんでもかんでも「親方日の丸」では困る。税金は国民ために使うべきもの、選挙の票を確保するための「ばらまき」であってはならない。さらに、金融機関がローンを組む場合、マンションを担保にして貸し付けるわけだが、担保物件の資産価値を徹底的に見極められなかった責任もまた問われなければならない。日本では昔から、義務と責任、権利と義務の図式が曖昧にされてきた。個々の責任に応じた義務、自己責任の領域をふまえた権利主張こそ、社会の秩序を形成する最低限の磯であるはずだ。

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2005.11.21

「NYから眺めたフジヤマ」byマイク・アキオステリス(日本通米国ジャーナリスト)(43)日本のTV番組の「幼稚さ」  

50 日本に出張中の11月19日(土曜日)、宿泊しているホテルで『脳内エステ IQサプリ』なる番組を観た。断っておくが、はじめからから同番組を観ようとして“フジテレビ”にチャンネルを合わせたのではなく、TVの電源を入れたらたまたま、この番組がはじまっていたのである。久しぶりに接した悪名高き日本のバラエティー番組…、でも当番組は一応、クイズ番組、バカ騒ぎする他のバラエティー番組とは違うと思い、チャンネルをそのままにした。当番組の放映時間帯は週末のゴールデン・タイム(7時~8時)、この時間帯はTV局にとって“勝負時間帯”、どの局も看板番組を投入する時間帯である。実際、番組スポンサーには日本を代表する大手企業がずらりと並んでいる。ところが、そのあまりにも「バカらしい内容」に辟易させられた。番組のキャッチ・フレーズは、「あなたの脳は疲れていませんか? 『脳内エステ IQサプリ』はあなたの疲れた脳をスッキリさせる『脳のリフレッシュ番組』です。ひねりの効いた良質の問題を解いていただくことで、脳をキレイにする」と謳っているが、そこには、娯楽性も、エンターテイメント性も、知性のかけらも感じられない。例をあげると、四角い紙の真ん中に小文字で「つ」と書かれてあるのをヒントに、ハサミとペンを使って『合格』を知らせる方法を考えなさいという問題。四角い紙の真ん中に『つ』と書かれてあるので『四っ角=しっかく』、つまり失格。これをヒントにしたところの正解が、四角い紙の真ん中に今度は『う』と書き、その四角い紙の一角を斜めに切って5角にすると、五角の紙に「う」という文字が書かれてあるので「五う角=ごうかく=合格」となるそうである。さらに、「宅配便で送られてくるはずの動物が届きません。送られてくるはずの動物はどんな動物でしょう」という問題の答えが、「届きません=トド来ません」ということで、「トド」が正解だそうである。なんともふざけた問題である。ただの言葉遊び、駄洒落を「IQサプリ」とする低次元のセンスもさることながら、このような番組をゴールデン・タイムに流すTV局の企画力に失望させられる。同番組を紹介しているHPには、「『脳内エステ IQサプリ』は、正解数を競うのではありません。正解を導くために、脳の分析力、 直感力、洞察力、計算力など、さまざまな脳の力を柔軟に使って、脳に磨きをかけていただくことが重要なのです。出題されるパズル問題は、脳を美しくするサプリメントと考えます」とあったが、文章に「届きません」という言葉が入っているからといって「トド来ません」となる問題が脳のサプリメントとは、笑わせる。同番組だけではない。いつだったか、夜の12時過ぎに放映していた若者向けのクイズ番組では、「パンダがいるのはどこの国でしょう」との問題が出され、答えを間違えた女性タレントが水着になるという、小学生の学芸会レベルの番組が放映されていた。いくら12時過ぎの番組とはいえ、このような番組を企画したプロデューサーの顔がみたいと思ったものだ。もちろん、これらは本格的なクイズ番組というよりも、お笑い番組としてのクイズだろうが、それでも、ここまで視聴者をバカにした構成、企画はいただけない。この程度のTV局でも何千億もの大金を出してほしがるIT企業がいるというから、今のうちに売り払ってしまった方がTV局にとって「またとない機会」かもしれない。


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2005.11.03

「NYから眺めたフジヤマ」byマイク・アキオステリス(日本通米国ジャーナリスト)(42)「親切」と「やさしさ」の国

先週、日本の出張から帰った。今回、成田空港での体験に皮肉な感動を覚えた。成田空港第一ターミナル、入国審査をおえて搭乗口ゲートに向かう途中、「喫煙室」があった。喫煙家の私はさっそく、喫煙室に入った。するとそ43こに「ライター」が備えられてあった。ライターといっても「100円ライター」ではなく、自動車用のシガレット・ライターと同じものである。喫煙室の中央通路にステンレス製の直径30センチ、高さ70センチぐらいの筒があり、その上面にシガレット・ライターが3つ付いていた。ボタンを押して10秒ぐらいするとコイルが真っ赤になって飛び出してくるライターである。電源の配線をみると「ちょっとした工事」を要する施設であることがわかった。このようなライターは既製品にないので特注だと思えた。金のかかる配慮である。喫煙室にライターを備え付けたのはテロ対策の一環として施されている「ライター類の機内持込禁止」からであろう。それにしても日本はなんと親切で、やさしい国だろうと思った。最近の空港はどこの国も「禁煙」である。これは今や「世界の常識」となっている。ところが、成田空港では“愛煙家”のために喫煙室を設けている。それもライターまで備え付けられてある。これほど親切な配慮は世界でも日本だけだ。成田空港だけではない。日本では公の場であっても、タバコを吸う権利はちゃんと認めてくれている。JR新幹線のプラット・ホームもそうだ。ホームの数箇所に「喫煙所」と書かれた場所がある。そしてそこにもステンレス製の立派な灰皿が備えられてある。いくらタバコの煙が周囲に嫌われようとも「決められた場所」では堂々と吸えるのである。愛煙家にとってはなんとも嬉しい理解だ。しかし、愛煙家を自認している私がいうのもなんだが、駅構内を全面禁煙とした以上、狭いプラット・ホームにわざわざ「喫煙所」を設けるのはおかしい。禁煙の処置は「場所」の問題ではなく、「煙の害」をして施される処置であるはず。これでは“抜け穴”をつくっているような印象を与えかねない。このようなことはタバコに限ったことではない。日本社会では「少数意見」にもちゃんと、配慮しなければならないようだ。もちろん少数意見、少数者権利には理解・配慮をもって向かい合わなければならない。だが、このような場合の配慮は「甘え」「偽善」「似非やさしさ」に他ならないように思えてならない。駅構内、空港構内は全面禁煙としながらもなぜ、例外を設けてしまうのだろう。これらは身体障害者に対する配慮とは違うのである。日本は一見、親切でやさしい国…、否、本当に親切でやさしい国である。エスカレーターに乗ると「もうすぐ降り口。足元には気をつけてください」とのアナウンスが延々と流れ、電車に乗ると「電車が動くと揺れますので気をつけてください」「ドアに指を挟まれないように気をつけてください」、駅の階段には「階段の上り下りには注意しましょう」…、幼稚園児でもわかるような注意書がベタベタ貼ってある。極めつけは「シルバー・シート」なるものだ。そこには「お年寄りや身体の不自由な方に席を譲りましょう」と書いてあるがいかんせん、それを守っている若者たちは少ないようだ。日本では「やさしさ」なる言葉が大流行である。企業は「環境にやさしい製品」を唱え、政府は「国民にやさしい政治」と叫んでいる。でも、その中には「甘え」をして放たれるやさしさが、少なくない。本当のやさしさ、本当の親切がどんなものか知らないから「やさしさ」を連発しているようだ。本当の“やさしさ”とはときに、「ルールと厳しく」向かいあう意識から連鎖されるものなのである。

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2005.10.20

「NYから眺めたフジヤマ」byマイク・アキオステリス(日本通米国ジャーナリスト)(41)国連分担金の不公平を言う“タイミング”

国連の分担金比率を見直す協議が国連総会で17日から始まった。日本の小沢俊朗国連大使が演説し、安保理の常任理事国ではない日本が、米国を除く常任理事国4カ国をあわせた額よりも多く負担することは不公平だとし31て「加盟国の地位と責任が考慮されるべきだ」と訴えた。9月の総会でも町村外相が分担金の包括的な見直しを要求。日本の負担軽減を求めていく姿勢を示した。日本はたしかに、国連分担金を多く負担している。現在、日本の国連分担金は19.5%。これは英国(6.1%)、フランス(6.0%)、中国(2.1%)、ロシア(1.1%)の4常任理事国の合計15.3%より多い額だ。常任理事国でもない日本が4常任理事国の合計よりも多い分担金を支払わされている不公平…、小沢大使が「(常任理事国という)地位を与えられていない国がこのような負担を続けることが公正の観点から認められるのか」、と訴える気持もわかるような気がする。しかし、この問題を出してくるタイミングが悪すぎる。日本は先に、常任理事国入りを目指して華々しい外交を展開、そこで高らかに掲げた名分が、「日本は約20%の国連分担金を負担して国連に貢献している。常任理事国になる資格は十分」という論調であった。ところが日本の常任理事国入りは頓挫、日本の外交の不手際を世界にさらしてしまった。こうなると、常任理事国入りで掲げた国連分担金の“威光”も意味がない。そこでさっそく、「日本の国連分担金は多すぎる!」と、軽滅を訴えた。日本の訴えに対して多くの国が、「それじゃなにか、日本は金で常任理事国を手に入れようとしたのか!」と思ったはずだ。少なくとも、「常任理事国にしてくれなかったから金を減らす」と言っているような印象を与えてしまう。これでは益々、日本という国は「金だけ」となってしまう。国連の分担金比率は3年に一度、見直される。07年から3年間に適用される比率は、この日の委員会を皮切りに総会や来年6月に開かれる分担金委員会(18カ国)などで来年末にかけて協議されることから、日本が分担金の軽滅を求めても不思議ではない。しかし、常任理事国入りの資格を分担金で翳した以上、『加盟国の地位と責任が考慮されるべきだ』という言葉を口にしてはいけない。国連本部を訪れた国際協力機構(JICA)の緒方貞子理事長も当日、分担金の問題について「日本は国連改革とか安保理の問題とリンクして発言すべきではないと思う」と述べている。常任理事国入りと分担金問題を切り離して展開できる外交、国際感覚こそが、常任理事国の“器量”なのである。日本が常任理事国入りを目指していた春頃、日本の多くのメディアは、「国連分担金を多く負担している日本ゆえ、常任理事国になってもおかしくない」…、といったことを掲載していたが、このような次元ではとてもじゃないが、国際社会のリーダー役は務まらない。実際、アメリカがイラク攻撃に傾きだした頃、主要国の意見は二つに割れた。ところが日本は、主要国の意見を眺めつつ、最後までどっちつかずの態度に徹していた。結局、アメリカに従うように賛成したのだが、国際問題に際して何の判断も、自らの判断も下せない国が、どうして常任理事国になれよう。こんな調子では「日本はお金で貢献してください」、と言われてもしかたがないだろう。なにせ、日本は世界から「アメリカに次ぐ経済大国」と崇められているのだから…。

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2005.10.11

「NYから眺めたフジヤマ」byマイク・アキオステリス(日本通米国ジャーナリスト)(40) TV局協賛の「小泉劇場」 

先週の週刊文春(10月13日号)に、「『小泉支配』を考える:第三弾」「小泉劇場に乗っ取られたテレビの自殺」との見出しにて、小泉劇場の巧みな演出、鮮やかな演技、それを支えたテレビのメディアとしての不甲斐なさを切り111まくっている。無理もない。今回の衆院選は小泉一座の一大舞台であり、それをテレビは絶妙なアングルで中継、国民たちを思い切り錯覚させたからである。テレビはメディアの中で最も影響力をもった媒体である。それだけに、テレビは絶対、中立を貫かなければならない。ところが今回、テレビは終始、“小泉劇場の中継”に徹した。「衆院選」という国家の一大事をまるで、視聴率を稼ぐ「特番」のような視点で取り上げた。そこには、冷静な視点も、批判も、問題定義も…、候補者を選択するに必要な最低限の情報、メッセージさえもなかった。どこのチャンネルでも、そこに映し出される顔は同じ顔ぶればかり。タレント文化人なるコメンテーターや似非評論家の、的外れ能書きのオンパレードであった。これではいけない。テレビは「公」の使命を背負っている。候補者たちの能力や資質を問う視点、公約などを吟味する視点、物事の本質を見極める知識人、評論家方の意見を国民に伝えなければならない。でもテレビはそのようなことにはとんと関心がないようだ。ただ、“話題性”と“お騒がせ”の場面だけを垂れ流せばいいと考えている。メディアの義務、使命を忘れて視聴者受けする「おもろい画」だけを垂れ流すのも一種のヤラセのような気がしてならない。この罪たるや、ジャーリズムの魂を捨て去る自殺行為でもある。とくに、文春が投票日前に放った「佐藤ゆかりセンセイの不倫メール」はどこのテレビ局も取り上げなかった。あの記事は政治家の“資質”を問うメッセージ…、メールの一部を掲載しての貴重な情報までもが小泉劇場の歓声にかき消されてしまった。あの「不倫メール」の記事を掲載した文春のタイミングは、「さすが!」と思ったほどだ。衆院選というバラエティー番組、お騒がせ候補者のワイドショーを延々と垂れ流し、郵政民営化の是非、その他の政策などには見向きもしなかったテレビは完全に、メディアの名前を返上してしまったようである。その結果、勘違いした輩たちが国会議員のバッチをつけ、「センセイ」と言われるに至ったのである。文春は記事の前書きで、「はっきり言おう。今回の選挙戦は『週刊誌の敗北』だった。活字メディアがさかんに送り出した反小泉のメッセージは、小泉に乗っ取られてしまったテレビの前では蟷螂の釜に過ぎなかった。低俗なテレビ番組に慣らされた国民を引き連れて小泉首相はどこへ向かうのか」と、活字メディアがテレビに及ばなかったことを「敗北」と記している。この潔さこそ、文春が発する「怒り」と「悔しさ」に他ならない。今回、文春の記事を読んで「ごもっとも」と同感したが、だからといってなにも、文春を贔屓にしているのでも、賞賛しているのでもない。ただ、文春の怒りに気持が重なっただけである。活字媒体の敗北…、しかし敗北は活字媒体だけではない。日本のマスコミ自体、とっくの昔に敗北している。実際、日本のマスコミは相変わらず、選挙が終わったら今度は、小泉将軍に敗れた悔しさを「小泉チルドレン」に向けて騒いでいる始末。これではテレビを詰る資格はない。今からでも遅くはない。メディアとして、日本の将来にとって何を発し続けなければならないかを真剣に考えていかなければならない時が到来したようである。

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2005.09.29

「NYから眺めたフジヤマ」byマイク・アキオステリス(日本通米国ジャーナリスト)(39)  杉村太蔵議員の記者会見に思う

自民党本部で27日、最年少で当選した杉村太蔵議員の記者会見が行われた。なんでも、若きセンセイの“正直すぎる発言”が国会議員にあるまじき云々…ということらしい。こんなことぐらいで記者会見とは、記者会見の公共5性も霞んでしまうようだ。日本ではタレントの恋人宣言まで記者会見である。これも、日本のメディアは記者会見の主旨・内容より“話題性”を重視するからであろう。この日もさっそく、百人を超える記者やリポーターたちが押し寄せた。大物政治家並みの規模である。マスコミが熱くなるのも無理はない。マスコミにとっては、これほどの“おもろいキャラクター”は吉本のお笑い軍団にもいないはず。なるほど、「料亭に行ってみたい」に始まる数々の“放言”は、タイミング的にも具合の悪い発言である。だが、それを記者会見で“お詫び”することの方がもっと、嘆かわしいことだ。昔、ドイツでポルノ女優が国会議員に当選した。彼女は国会で数々のパフォーマンスを披露し、国民の関心を「政治」に誘導した。それに比べればなんでもないことだ。杉村議員は当初、衆院選に出馬するという“経験”をしてみたく立候補したのだが、間違って当選してしまった。衆院選に出馬するところまでは想定していたのでそこまでは、それなりの心の準備もしていただろう。ところが、いきなり“当選議員”になってしまったから大変、どう対応していいかもわからないまま、マスコミに取り囲まれてしまった。国会議員としての取り繕い方も言葉もしらない。杉村議員は興奮し、戸惑いながらもありのままの、正直な意見を語った。つまり、日頃の感想、本音を語ってみせたのである。「料亭に行ってみたい」「国会議員の給料は2500万円」「議員宿舎は3LDKで楽しみ」など、正直すぎる言葉を元気よく披露した。純粋で正直な若者だったのである。普通のセンセイ方なら、そんなことを思っていても一旦、それがどのような印象で受け止められるかを見回し、優等生的な言葉を繰り出すはずだ。人間、腹の中では「あの野郎!」と思っても、本人を前にすると、「元気ですか。がんばってください」と、もっともらしい言葉で取り繕うものだ。とくに日本では、場の雰囲気、立場をわきまえることが品位、礼儀とされている。そんな社会に照らすと、杉村議員の言動はすべて「???」となって当然だろう。実際、「なぜあんな奴が国会議員になったのか!」と、ブーイングである。コメンテーターや評論家といわれる似非センセイたちまでが、杉村議員の軽さを射っている。彼を攻めるのは酷である。「不倫メール」や「お菓子を摘みながら語れる政治」の言動がもっと、軽いものであるはず、ましてや、彼の当選は比例選挙制の弊害であり、杉村議員を公認した自民党の責任でしかない。それを…、元気な若者を型に押し込め、枠にはめるようとして「お詫びの記者会見」を開かせるとは、なさけないことだ。ニートやフリーターが犇く日本社会にも、彼のような元気な若者がいるとわかっただけでも心が和んでくる。一若者が衆院選に候補する「経験」を味わいたく、それを実行に移した行動力や勇気には、『頑張れよ!』の一言もかけてあげたくなる。そして、彼にはもっと、若者らしき本音、若者たちの考えを代弁してほしいと思っている。若き日は数々の失敗、失言の連続だ。人間は失敗を経て成長し、その失敗から学び、悟っていく。杉村議員の資質、可能性はまだまだ「?」かもしれないが少なくとも、26歳の“志”に石を投げつけることだけはやめてほしい。なにより、マスコミの餌食にはならないでもらいたい。小泉首相の変人度に比べればまだまだ、杉村議員の方がまとものような気がしてならないからだ。


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2005.09.24

「NYから眺めたフジヤマ」byマイク・アキオステリス(日本通米国ジャーナリスト)(38)  「イケメン」と「美女」の国

「自民党をぶっ潰す」で始まった衆院選は、自民党の圧勝で幕を閉じた。一方、「日本をあきらめない」と、勇ましい掛け声で挑んだ民主党は惨敗、岡田党首などは“忘れ去られた人”となってしまった。選挙は結果がすべて、5小泉大将の強引なやり方に首を傾げていたマスコミも、選挙戦がおわった途端にこぞって、小泉チルドレンたちに照準を合わせている。“26歳センセイ”のトンチンカンな発言、不倫メールで“女をあげた”マドンナ・センセイのお色気、ピンクのスーツで登院した“ピエロ・センセイ”など、劇場型選挙戦に劣らない“おもろい場面”を繰り出している。そんな中、お通夜の雰囲気も薄らいできた民主党は17日、東京都内のホテルで両院議員総会を開き、民主党所属国会議員192人が、代表戦の無記名投票を行った。その結果、前原氏が2票差で新代表に選出された。新代表に選ばれた前原氏は、「国民の信頼を取り戻し、民主主義を機能させるため全身全霊で政治生命を賭けて挙党一致で臨みたい」と決意を語った。民主党のことを忘れていたかにみえたマスコミもさっそく、若き新党首に焦点を合わせ始めた。ところが、その取り上げ方がなんとも、ふざけている。ある大手新聞(インターネット版)は、前原氏が新党首に選出されたことを報じる第一報にて、「民主党の新党首は『イケメン』」との見出しを付けていた。民主党の新党首が男前かどうかは、井戸端会議での「雑談レベル」。大新聞が見出しに付ける言葉ではない。この見出しを付けた記者は多分、新党首としての資質や能力よりも、男前かどうかの方がより、重要なポイントだったのだろう。週刊誌に至っては「前原新党首の夫人は民主党一の美人妻」と、夫人の「美人度」に照準を合わせている。片山さつきセンセイは元ミス東大だの、小池百合子センセイの足が美しいだのと、マスコミはセンセイ方の容姿に関心が注いでいる。ならば、日本で政治家になるにはまず、人格や信念より容姿…、いや、政治家だけではない。日本社会では「イケメン」や「美人」が紋章のようになっている。実際、中身のない人間でも容姿さえ整っていればそれだけで、騒がれる。そればかりか、日本のマスコミは凶悪事件の被害者までも、「美人OL殺害される」、「美人女学生拉致される」などと、美人という言葉をやたらと掲げる。美男・美女の印象は個人的なもの。容姿に拘る視点は「脚色」であり「形容」である。一記者の先入観だけで「イケメン」「美女」と配するのは一種の、差別的視点である。報道とは事実、真実に目を向け、その裏づけとなる真相を追求していくもの。これらはジャーナリズムとしての基礎知識、記者の遵守事項であるはずだ。今回の選挙を「劇場型」にしたのはその実、マスコミである。日本のマスコミは真面目な視点で取り上げなければならない問題をも「おみしろいアングル」で迫り、有権者受けする話題だけを掻い摘んで報じているようだ。その結果、国民たちはマスコミに飼いならされ、何が真実で、何が実態かさえわからなくなっている。日本のマスコミにとっての選挙とは、日本の将来を計る舞台ではなく、国家公認の一大エンターテイメント、なのである。報道とバラエティーの境界がなくなっていく社会…、そこでは、「おもしろければ何でもいい」との意識だけが渦巻いている。このことに気付かない輩たちがジャーナリストとして跋扈している間、日本のマスコミは世界から、「幼児扱い」なのである。

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2005.09.19

「NYから眺めたフジヤマ」byマイク・アキオステリス(日本通米国ジャーナリスト)(37) 世界で最も「性に大らかな国」 

警察の不祥事が相次いでいる日本だが、ここにきて、警察官による“性的事件”が急増している。滋賀県警は16日、取り調べ中の女性にわいせつな行為をしたとして、県警高島署刑事課の巡査部長、今村円容疑者(34)を特5別公務員暴行陵虐容疑で逮捕した。5月には、四谷署組織犯罪対策課の警部補(52)が、刑事事件で逮捕された後に起訴猶予処分を受けて釈放された20代の女性とホテルで性的関係をもった。6月には警視庁組織犯罪対策5課警部補、今井浩之容疑者(44)が、覚せい剤取締法違反の罪で起訴拘置中の20代の女性と取調室で性的関係をもち、特別公務員暴行陵虐容疑で逮捕されている。また、8月には大阪府警の警部補、赤池章好容疑者(49)が、覚せい剤取締法違反容疑などで取り調べ中の女性にわいせつな行為をし、逮捕されている。極めつけはなんといってもこれだろう。神奈川県警泉署巡査長の江渕剛(42)が合鍵を使って留置室に入り、殺人罪などで留置中の女性容疑者(36)と、計7回にわたり性的関係をもった事件である。彼は横浜地裁から懲役3年(求刑懲役5年)を言い渡された。警察官が留置中の容疑者と性的関係を及ぶとは、呆れたものである。だが、これとて氷山の一角に過ぎない。未成年者へのわいせつ行為や痴漢など、マスコミに報じられない事件は数えられないぐらいの量に達している。一般人に至っては、大学教授から政治家、映画監督、タレント、公務員、大手企業社員、医師や弁護士まで、社会的地位、人格を有している男性たちがこぞって、“この手にわいせつ行為”で逮捕されている。でも大丈夫だ。日本では、少々の性的犯罪は“出来心”として大目に見てくれる。実際、初犯での痴漢などは、不起訴か罰金刑で釈放される場合が多い。先進国の中で日本が最も、性的犯罪に寛大な国というのも、頷ける。8月、ダラスからボストンへ向かうデルタ航空の機内で、隣に座った女性に猥褻行為をしたとして、加害者である男(会社重役55歳)に懲役7年の刑が言い渡された。男は隣の席で眠っている女性(22歳)に毛布を被せてシートベルトを外し、さらにズボンのボタンをはずして女性の秘部を触った。これに気付いた女性は、男の手を振り払って機内後部へ逃げ、客室乗務員に説明した。機内には仕事を終えて帰宅途中だった米シークレット・サービス員4名が乗り合わせていたことから、乗務員は彼らに報告。男はボストン空港で待ち構えていた警察に、逮捕された。彼は「こんな女性は知らない」と主張したが、手の皮膚細胞に被害者女性のDNAが大量に付着していることが判明、これが動かぬ証拠となった。男は懲役刑に加え、出所後も2年間は警察の監督下に置かれる。隣席の女性に手を出した刑が懲役7年、保護観察2年とは、日本では考えられない重過ぎる刑である。これと同じような事件が日本で起きた場合、日本の裁判所は懲役1~2年…、いや、執行猶予となるだろう。無理もない。日本という国では男性のシンボル、女性の陰部を形とった木彫りが“神様”として祀られ、それを女性アナが撫でながら茶の間に紹介する。そればかりか、未成年者の売春が“援助交際”として堂々と行われているに至っては、これほど性に大らかな国は他にないようだ。ギリシャやローマが滅びる時にも「性の乱れ」が社会を覆ったが、「女の裸に羞恥心を感じなく社会は末世の兆し」といわれている。日本の末世がそこまで、きているようだ。

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2005.09.08

「NYから眺めたフジヤマ」byマイク・アキオステリス(日本通米国ジャーナリスト)(36)外国人記者が見た衆院選

ニッポンの夏を「灼熱」に変えてしまった衆議院選もいよいよ、後4日を残すだけとなった。日本のメディアは連日、衆院選関連ニュースを垂れ流している。“絶妙すぎるタイミング”で不倫メールまで飛び出す始末。まさに、仁義な65き戦いである。日本の報道をみているどうも、選挙報道というよりエンターテイメント性に照準を合わせているようだ。一人でも多くの有権者に名前を覚えてもらおうと必死で叫んでいる候補者がいるかと思えば、反対に、マスコミが宣伝してくれる候補者もいる。日本で政治家を目指そうとするなら何が何でも、“有名人度”を上げなければならないようだ。実は、このことを一番わかっているのが他でもなく、小泉首相であろう。彼はマスコミが騒いでくれそうな有名人に目を付け、話題を振りまいてくれる「マドンナたち」を揃えたのだから、さすがに類まれなる演出家であり役者だ。今回の衆議院選挙は米メディアも多大な関心を注いでいる。無理もない。ブッシュ政権にとって、「ミスター・コイズミは都合のいいパートナー」であるからして、なんとしても勝ってくれなくては困るのである。ドイツも18日、総選挙を控えている。だが世界は、ドイツよりも日本の選挙に関心を注いでいるようだ。ニューズウィークの最新号に掲載された、「在日外国人記者が見た衆議院選」を簡単に紹介してみたい。英国・ガーディアン紙のジャスティーン氏:「それにしても今回の選挙は、まさに『ワイド・ショー』だ。元ミス東大候補のヘアスタイルは時代遅れか、佐藤ゆかりは不倫したのか、小池百合子は小泉と結婚するのか、そんな話題が毎日、テレビや雑誌を賑わしている」。韓国・朝鮮日報紙の金氏:「今回の選挙は日本にとって混乱ではなく発展のチャンスだと思う」。ドイツ版・ファイナンシャル・タイムズ紙のマーティン氏:「日本はドイツよりも急速な改革に貪欲だと思う。戦後世代はすでに日本を変えつつある。問題は政治が社会変化についていけるかどうかだ」。台湾・中国時評紙のヤン氏:「岡田代表は記者の目を見ようとはしない。目をみない岡田代表はすでに敗者だ」。米国・ロサンゼルス・タイムズ紙のブルース氏:「小泉首相のやっていることは議会制民主主義の選挙では当たり前のことだ。選挙の争点を限定し、自分の選択を支持してほしいと訴える。これが勝負の半分を占める」。インドネシア・コンパス紙のリチャード氏:「日本は『強調』の国だ。一人の首相が国を変えることはできない。だが小泉のアグレッシップな戦略は、ほかの首相ができなかったことだ」。中国・新華通信社のウー氏:「民主主義は反対なら反対をいえはだ。だが、小泉自民党では反対すれば追放される」。オーストラリア・シドニー・モーニング・ヘラルド紙のデポラ氏:「小泉首相とジョン・ハワード豪首相には、明らかな共通点がある。2人とも自分にとって戦いやすい焦点を見つけ、自分の主張に拘るやり方を心得ている」。香港・サウス・チャイナ紙のシュリアン氏:「日本の選挙報道は味気ない。スタジオに評論家を並べ、街頭の群衆を映すだけ。報道の既成概念にとらわれず、独自のやり方で視聴者を争点に引き込むことが、苦手のようだ。ヨルダン・国営ペトラ通信のカリドュン氏:「誰が勝っても日本の企業政治は不変だ」。小泉一座が演じる日本の劇場型選挙戦に、世界からも熱いまなざしが注がれている。  

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2005.08.28

「NYから眺めたフジヤマ」byマイク・アキオステリス(日本通米国ジャーナリスト)(35) 衆議院選という「劇場型ドラマ」

一週間の出張から帰った。溜まっていた郵便物のなかに日本から届いた小包があった。小包には日本のTV番組を録画したビデオや週刊誌など、雑誌が十冊ほど入っていた。日本の友人が毎月、送付してくれる。ありがたいことだ。日本の“今の模様”を知るにはインターネットよりも週刊誌やTV番組の方が断然、わかりやすい。夕方、ニッ6ポンの二週間を眺めた。今回はどこのメディアも衆議院選をメインに取り上げているが相変わらず、小泉首相を主役に据えては、「ぶっ潰す」「刺客」「造反組」「マドンナ候補」など、好奇心を刺激する活字を繰り出し騒ぎ立てている。日本のマスコミは総じて、選挙戦を「ドラマ」に仕立て上げようとしているようだ。それも小泉首相を「織田信長」に重ねての「劇場型ドラマ」である。でもなんとなく、すっきりしないものを感じる。郵政に反対した議員はあくまでも、一国会議員としての判断で行動したに過ぎない。それがいつのまにか、裏切り者、造反組に置き換えられている。多数決で否決された以上、その後は政策をもって説得するか、あるいは、法案をやり直すかしかない。それを窮地に追い込むやり方にて、「どっちを取る!」と迫るとは、こんな乱暴なやり方が罷り通るのならば民主主義も、国会も必要ない。ところが国民はこれを支持している。それも、そこまでしなければ「真の改革」が出来ないという見解からの支持というより、一見、信念を貫いているかに映る小泉首相の頑さと負けん気に「好感」を感じての支持である。造反組はさぞかし、悔しい思いだろう。しかたがない。政治は演出、ショーの要素を多分に含んでいるから千両役者の小泉首相にはかなうまい。小泉首相の演技に比べると亀井静香議員のイメージは脇役どころか、悪徳代官のそれである。民主党の岡田党首に至っては大根役者のレベルだ。実際、小泉首相の「自民党をぶっ潰す!」「反対するものは容赦しない!」との啖呵に国民の半数以上が喝采を送っている。さらに、経団連も小泉改革を支持、米マスコミもこぞって、小泉首相の改革路線にエールを送っている。ブッシュ大統領あたりはさぞかし、郵政を踏み絵に頑張っている小泉首相を頼もしくも、心強いパートナーと思っているだろう。“変人”と言われる小泉首相がこれだけ支持される背景には日本の異質さ、日本特有の「生理」があるようだ。日本の有権者は外見、イメージ、知名度などで判断する傾向が強い。日本の選挙では「弔い合戦」なる言葉が動員されるほどに、心情的、感情的なものが左右する。こうした特性を考えると今のところ、小泉首相の賭けは当たったようだ。しかし“刺客”として鳴り物入りで送り込んだ候補者の顔ぶれをみると…、そこには改革もなければ政策ない。マドンナ候補者の一人である料理研究家のセンセイは、「お茶を飲みながら政治を語る、そんな政治があってもいいと思います」と言う始末。広島から立候補したホリエモンは「親に育ててもらった分はすでに、それ以上の金銭でお返ししている」と、親の恩を金銭の損得勘定で論じる人間性。この程度の刺客を連ねて改革を叫んでいるようでは到底、本物とはいえまい。真の改革とは、国民をして「これではいけない!」との危機感に煽られる現象である。残念ながら今の日本には、そうした危機感はどこを探しても見当たらない。

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2005.08.20

「NYから眺めたフジヤマ」byマイク・アキオステリス(日本通米国ジャーナリスト)(34) 「8月15日」と小泉研究 

8月15日、九段の靖国神社には炎天下の中、若者から遺族、戦友まで幅広い世代が訪れ、参拝者は過去最高の20万5千人(神社調べ)に達したという。ここ数年で最も多かったのは小泉首相が8月13日に参拝した平成1243年の12万5千人。郵政解散の中、靖国神社への関心が高いことをうかがわせた。閣僚では尾辻秀久厚生労働相と小池百合子環境相が参拝。超党派の「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」の前衆院議員23人と参院議員24人(ほかに代理が衆参両院合わせ83人)のほか、石原東京都知事、安倍晋三幹事長代理らも個別に参拝した。ところが靖国神社に最も想いを馳せている小泉首相の姿はなかった。小泉首相の“頑固さ”を信じていた国民の多くがある種の、失望感を抱いたに違いない。小泉首相の靖国参拝に関しては中国や韓国など、アジアから猛烈な批判があがっている一方、国内でも賛否両論の声が渦巻いている。それだけに、日本の首相が「8月15日」に参拝することで生じる問題はアジアとの関係だけでなく、日本の印象、日本の器量が問われる踏み絵ともなる。さらに、衆議院選挙を前に靖国参拝が「凶」と出る可能性もなくはない…、小泉首相もさすがに、8月15日は避けなければならなかったようだ。小泉首相はこれまで、「日本の平和と繁栄は戦争の時代に生きて、心ならずも命を落とさなければならなかった方々の尊い犠牲の上に成り立っている」と述べ、靖国参拝を頑なに貫いてきた。さらに、今年は終戦60周年を迎える年、8月15日に参拝しなければそれこそ、「知念」で涙ながらに誓った特攻隊員との約束が反故になる。これでは小泉純一郎という政治家の印象が色褪せ、「一度言ったことは絶対に実行する」との、変人首相のイメージさえも崩れかねない。彼が首相に就任した時、“力強い言葉”で「8月15日には絶対に参拝する!」と言い切っている。小泉首相の靖国観は一貫して、「人間としての信念」「国民としての道義」「日本国首相としての義務」との信念を掲げてきたはず…、ならば今までの言葉はなんだったのだろうか。断っておくがなにも小泉首相が靖国神社に参拝する、しないという問題を論じようとしているのではない。ただ、「口にしたことは絶対に守る」、との看板を掲げてきた小泉首相の言動はその実、政治的演出でしかなかったような気がしてならないのである。もしや、国民たちは小泉首相に錯覚しているのではないだろうか。短いフレーズで語る無駄のない言葉、的確な表現力、コピーのような名セリフは政治家の発言というより、観客を酔わせる役者のそれに似てなくもない。独裁者ヒトラーがそうであったように冷酷で我侭な主張は時に、「頑な信念」に映り、手段をも選ばない負けん気の強さは「頼もしき実行力」に感じられる場合がある。実際、今までの小泉首相の言動を振り返ってみると、当初は唸らされる政策や言葉も時が経つにつれ、「あの言葉は何だったのだろう?」と思えることがいっぱいある。もしや、これまでの日本の政治家があまりにもだらしなかったのでつい、小泉首相の変人的言動が「すごい」と思ってしまったのかもしれない。まあいい。本物と偽者の違いは必ずや、歴史が裁いてくれるはず…いや、その前にまず、国民たちが審判を下してくれるだろう。


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2005.08.15

「NYから眺めたフジヤマ」byマイク・アキオステリス(日本通米国ジャーナリスト)(33) 「食いしん坊バンザイ!」の国 

アメリカで数年前から日本の、「料理の鉄人」が放映されている。米国での番組名は「アイアン・シェフ」、米視聴者たちにも好評だ。同番組は声優たちの喋り方まで日本と同じ臨場感で編集されている。ところが、審査員のコメントだけは日本と異なっている。例えば、日本での『味が香りに隠れているところが絶妙ですね』のコメントが英語1234に吹き替えられると、『香りと味が素晴らしい』となってしまう。これはシナリオ担当者の責任ではない。日本人・日本語がもつ繊細さ、曖昧さには英語に訳せない境地があって無理に訳すと言葉にならないからである。つまり「ワビ」「サビ」の、日本人の「拘りの世界」である。でも、間違った吹き替えでも問題はない。米国では「エンターテイメント性」に重点がおかれるので味に関しては「美味しい」「素晴らしい」で十分なのである。それにしても、香りに隠れた味というのがどんな味なのかぜひ一度、体験してみたいものだ。「料理の鉄人」に限らず日本人の「拘り」は世界で類をみない「精神世界」である。「美味しい」とか「旨い」の次元を超え、「道」を求める修行の世界である。また、日本人ほど「食べる」ことを生きがいにしている国民もいない。それを物語る現象が「ラーメン・ブーム」である。日本のメディアは連日、「幻のラーメン」「行列のできるラーメン屋」など、日本中のラーメン店を紹介している。“料理への執着”はラーメンだけでない。寿司から韓国料理まで、ほとんどのジャンルにわたっている。その結果、どのメディアにも必ず、料理に関する記事が掲載されている。手元にある日本の雑誌(古い雑誌も多い)を捲ってみると…、「週刊朝日」の巻末カラー・グラビアには185回目にあたる「魂のラーメン」の連載があった。そしてそこには「…魚介の乾物の風味の利いたグッと胃袋に迫真する味わいなのである」との紹介文が載っていた。“胃袋に迫真する味”とは一体、どんな味なのだろうか。「フライデー」の巻末グラビアには「ガチンコ親父・佐野実。オレが唸った一杯」。「週刊ポスト」では「シリーズ・情熱の料理人」と題し「旬を食う」を掲載している。「週刊現代」は八ページを割いて「うまい鍋21」をカラーで紹介、巻末グラビアでは「山本益博の50皿勝負・これが最高」という連載があった。ヘアー・ヌードのない週刊文春や週刊新潮もこと料理に関しては、「東西食遊記」、「グルメ」の連載があった。これはテレビも同じである。今やどの局も料理企画番組、料理バラエティー番組のオンパレードである。女性誌や料理専門誌ならまだしも、これだけ多くの料理関連情報が氾濫しているに至っては、日本のマスコミはこぞって、日本人の楽しみを「食べること」に縛り付けているようである。なにも料理関連記事・番組がいけないというのではない。ただ、これだけ多くの料理情報は行き過ぎである。それも、たまに掲載されるのならまだしも、毎週、毎度の掲載だと「他に取り上げる情報・問題はないのか!」となってしまう。昨年、大阪府で某小学校の高学年八百二十五名に『将来なりたい職業は』とのアンケート調査を行ったところそのうちの31%の生徒が、「板前・料理人・シェフ」と答えたそうだ。ちなみにこれは三位であった。料理人に憧れている子どもが31%とは驚いたが、日本は将来、どんな国になるのだろうか。

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2005.08.08

<新連載開始> 「NYから眺めたフジヤマ」byマイク・アキオステリス(日本通米国ジャーナリスト)32  「サラリーマン化」する日本 永岡代議士の自殺

「郵政民営化」がクライマックスに差し掛かった8月1日、自民党の永岡洋治衆院議員(54)が自殺した。現職国会議員の自殺は、98年2月の新井将敬衆院議員(当時50)以来である。永岡議員は東大法学部を卒業後、ハ20050801ーバード大の大学院を修了し、03年4月の衆院補選で初当選、同年11月に再選を果たした。しかし、彼のエリート人生は国会議員になった瞬間から負に転じた。郵政民営化法案の党議拘束を決めた6月28日、永岡議員は党総務会で反対を唱えた。ところが、7月5日の衆院本会議で賛成にまわった。議員会館には「今度はお前に青色(反対票)を投じてやる」といった嫌がらせの電話やファクスが1日に10件以上も届いた。本音は「反対」であったが組織の一員として「賛成」しなければならない現実…、自分の信念を貫き通すかそれとも、一兵卒として“忠”に徹するか、厳しい選択を迫られた。派閥政治が繰り広げられている日本では政治家の嘘、裏切り、寝返り、造反といったことは日常茶飯事である。だが、そこを巧みに泳ぎきらなければ一人前の政治家になれないそうである。永岡議員も結局、「党の事情」に押されて賛成票を投じた。彼は秘書に、この時の心情を「僕は自民党の社員だから仕方がない」と語った。亡くなった永岡議員には申し訳ないが、「そんな弱気で政治家が務まるか!」となってしまう。国民から選ばれて国会議員になった以上、国民にとって最も良いと思える判断を基準に据えなければならない。それを、「党の事情」や「解散後の選挙事情」を優先し、意思に反した「偽りの票」をもって名分を翳すのは、国民に対する裏切りである。政治家は時に、厳しき決断に迫られる場合が少なくない。国家・国民の一大事に際しては常に、自分の下した判断が後世に裁かれるとの、覚悟と責任をもって向かい合わなければならない。ケネディー大統領が「キューバー危機」にて下した歴史的決断、また、核兵器の存在が確認できない時点でイラク攻撃にGOサインを出した米ブッシュ大統領…、政治家の判断はその後の、時代の流れを変える一大事として歴史に刻まれる。それだけに、いい加減な覚悟、生半可な信念では政治家になれない。永岡議員の自殺の報せに接し、なにも自殺することはなかっただろうに…と思うと半面、彼は政治家に向かない人、国会議員になってはいけない人、と思った。とくに、「僕は自民党の一社員…」という言葉に、サラリーマンと化した哀れさまで伝わってきた。彼だけではない。日本の政界にはサラリーマンと化した国会議員と二世議員しかいない。そこには国家・国民のために身を投じる政治家など、志と気骨をもった人物は一人として見当たらない。このようなことは政治家だけではない。警察官の裏金作りも同じだ。悪を取り締まる警察官としては当然、裏金づくりは悪事とわかっている。ところが、サラリーマン化した意識が警察の使命と責任を麻痺させ、せっせと裏金づくりに手を貸す。日本社会はまさに、「赤信号みんなで渡れば恐くない」の社会である。日本では自分の意思・主張・判断よりも周囲の状況に照らし、周囲の顔色を伺わなければならないようだ。ならば、日本で生きていくためには絶対、「寄らば大樹の影」「長いものに巻かれろ」との、日本特有に知恵と処世を身につけなければならないようである。

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2005.08.02

<新連載開始>「NYから眺めたフジヤマ」byマイク・アキオステリス(日本通米国ジャーナリスト)31 ニッポンの「天下り制度」

日本道路公団発注の鋼鉄製橋梁工事をめぐる談合事件で、東京地検特捜部は7月25日、同公団副総裁の内田道雄容疑者(60歳)を独占禁止法違反の幇助と背任の疑いで逮捕した。国土交通省分に端を発した一連の事件の「公団ルート」では、OBの天下りで公団と結びついた業界側が談合を繰り返していた実態がすでに判明、今回の逮捕で「官製談合」であることがより鮮明になった。同談合事件に関連して今年6月、天下りに関する聞き取り調査が行われた。その結果、談合組織「K会」「A会」の計47社のうち36社に計43人が天下りであった。また、公団の内部資料ではOBを受け入れた企業35社の2000年から5年間の受注額の平均は約205億円、受け入れていない12社の平均は約51億円だったというから、天下り組がいかに実力を発揮したかがわかる。内田副総裁の悪事に対し、裁判所はいつものように執行猶予でお茶を濁すだろうことは想像に難くないが、これは国民に対する裏切りであり、国に対する背任である。その元締めには厳しき裁きで挑んでほしいものだ。「許認可の国」である日本社会は何事においても、役所・役人の介入で動いている。企業もビジネスも同じだ。民間に天下った役人がそれ相応のコネクションと影響力を発揮すれば膨大な利益をもたらすことができる。そこで、企業も積極的に「天下り」を受け入れる。それも、警察関係の役人は警備会社や消費者金融、金融庁関係は銀行や保険業界など、天下り先の「縄張り」まで決まっている。民間企業に天下った彼らは電話一本で便宜を引き出しては、高額な報酬を受け取ってふんぞり返っている。天下りとは要するに、「背任」と「癒着」なのである。日本では官僚や役員が民間企業に転職することを「天下り」と言っている。「天下り」という言葉を最初に使ったのは誰だか知らないが、これほど人をバカにした言葉もない。“天から下ってくる”とは、なんとも笑わせる。もしや、当の役人たちが使い始めたのではないだろうか。自分たちが民間人よりも上…、実際、日本では役人のことを「お上」と言っている。「お上」という言葉に、役人たちが上で民間人は下だと言っているように聞こえてくる。官僚とはさしずめ、お上の上に君臨している偉い人、ということになるから、天から下ってくるという解釈も成り立つわけだ。結構な解釈である。逮捕された内田副総裁は談合組織「K会」「A会」や「公団OB団体の会」について訊かれると、白々しく「知らない」と答えていたが、実は自分が元締めだったわけである。また、談合2組織について質問された際も、「知らない」と主張し、猪瀬直樹氏が疑問視すると、「名誉を傷つけられた」として委員懇談会への出席を拒否した。自分の悪事がばれたので「もう学校に行かない」と駄々をこねている子どもと同じレベルである。この程度のおっさんでも一応、「東京大学」を出たとの紋章さえあれば公団副総裁までなれる。学歴社会の日本では能力と出世はまったく関係がないようだ。それより、何が何でも一流大学を出る方が確実である。無能でも○○大学卒との箔さえ付ければたちどころに、出世コースに乗れる。これほど便利な国…、否、次元の低い国もないだろう。だとすれば、子どもの時から一流大学を目指して塾通いするのも何となくわかるような気がする。

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2005.07.25

<新連載開始>「NYから眺めたフジヤマ」byマイク・アキオステリス(日本通米国ジャーナリスト)30 「バブルに舞った人生」   

7月18日、旧2信用組合の乱脈融資事件で背任罪に問われた旧東京協和信用組合の高橋治則(たかはし・はるのり)元理事長(1、2審で実刑、上告中)が、くも膜下出血のため死去した。享年59歳。高橋元理事長は「イ・アイ・イ」グループのトップとして、山口敏夫元労相や旧大蔵省幹部など政官界に人脈を広げ、旧長期信用銀行の2バックアップを受けて国内外で大規模なリゾート事業を展開。ピーク時には一兆円以上のグループ総資産を誇り「南太平洋のリゾート王」とも呼ばれた。だが、バブルはあっけなく崩壊してしまった。彼は両信組から無担保や担保不足のまま、巨額の融資を引き出し焦げ付かせ、両信組を破綻に追い込んだとして、2003年6月、東京高裁から懲役3年6月の実刑判決を言い渡された。リゾート王から被告の身に転落した彼の人生に、錯覚に酔いしれた「哀れさ」が映し出される。日本を、日本人を狂わせたバブルは、日本人が初めて経験する“熱病”であったかもしれない。東洋の小さな島国が世界を買えると思った錯覚、ジャパン・マネーが世界で最も価値があると信じた無知、そして、国際社会を見下した傲慢な振る舞いは、日本人の限界をして生じさせた現象であろう。敗戦で迎えた戦後、日本はアメリカに叩きのめされたことで、アメリカの国力・経済力を思い知らされた。日本人の中に刻まれた欧米社会に対するコンプレックス…、戦争に負けた屈辱と自尊心は「今に見ておれ」との、励みと悔しさに置き換えられた。日本は自ら“アメリカの弟分”に徹する“知恵”と“処世”をして、「アメリカに追いつけ追い越せ」を目標に据えた。「日本株式会社」「エコノミック・アニマル」と影口をたたかれながらもがむしゃらに、金儲けに徹したのである。優秀で勤勉な日本人はやがて、アメリカに次ぐ世界第二の経済大国に上り詰めた。そればかりか、日本製品の品質・技術はアメリカを凌駕し、日本の技術がなければアメリカの宇宙計画も支障をきたすまでになった。この頃から、日本人の意識の中に「アメリカをも追い越せる」との自信が芽生えだした。時を同じくして、米国人作家が書いた「ジャパン・アズ・ナンバーワン」がベストセラーになった。世界がこぞって、日本式経営に熱い視線を向けるようになるや、日本人の自信は“錯覚”に変わっていった。米フォーブス誌が発表する世界の富豪ランキング・トップテンに6人もの日本人が顔を揃えた。世界一の経済大国になれたと信じた錯覚…、でも、当時はそれを、錯覚とは思う人はいなかった。さっそく、日本は自分たちの自信を世界に誇ろうとした。それにはまず、世界一の経済大国アメリカを買い漁ることで証明しようとした。さっそく、アメリカの象徴であり自尊心であるエンパイヤー・ステートビル、ロックフェラー・センター、ハリウッドの映画産業をも手中にした。時期を同じくして、高橋元理事長もまた、南太平洋のリゾート王として華やかなスポットライトを浴びていた。日本中が有頂天に舞っていたバブルの宴である。バブル崩壊後、日本は史上最も長い不況に突入した。今なお、バブルの後遺症は日本中で野晒しになっている。井の中の蛙が腹を膨らませ続けた結果は、悲惨なまでの「現実」でしかなかった。若くして逝った高橋元理事長は、バブルを象徴する人物として永遠に、記憶されるだろう。

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2005.07.17

<新連載開始>「NYから眺めたフジヤマ」byマイク・アキオステリス(日本通米国ジャーナリスト)29  「イワシの頭も信心から」

会社が倒産した男が、宗教や通信販売がもうかると考え、自分だけに聞こえる「天声」を考案し、宗教法人を設立。そして、ゴーストライターに書かせた著書で足裏診断を宣伝、悩みを抱えて相談に来る信者から巨額の金を搾取した。さらに、新規に修行参加者を獲得すれば報奨金を出すシステムで信者を増やしていった。東京地裁は57月15日、宗教法人「法の華三法行(さんぽうぎょう)」(解散)の元代表役員・福永法源(ほうげん)に対して懲役12年(求刑懲役13年)の判決を言い渡した。13年の求刑に12年の判決は、日本の裁判所の“マニュアル的量刑”に照らせば厳しき量刑に入る。だが、福永被告の罪は百年の刑をもってしても赦されないものである。なぜなら、この世で最も残酷な罪とは、殺人や放火といった類の罪ではなく、藁にもすがりたい「信」を食い物にする“偽善”だからである。それにしても、詐欺師でも教祖様になれる日本はなんと純粋で信心深い国だろう、と思わずにいられない。実際、多神教の国である日本には現在、約18万の宗教法人がある。大は信者の数が数百万人といった宗教団体から、小は数十人のオカルト教団まで、そこでさまざまな教義が唱えられている。ただの「おっさん」を神格化している宗教団体もあれば、フリーセックスを唱える教団…、堂々と「株式会社」の形態をとっている宗教団体もある。なるほど、「信仰の自由」は「言論の自由」以上に尊き権利であり、信者にとってはそれがすべて…絶対的なものである。それだけに、個々の中に刻まれている「神」を差別したり、否定したりすることはできない。しかし、信じる対象が何であれ、信じることでもたらされる精神の救済、心の安泰、希望などに宗教の存在意義、使命を据えるならまだしも、宗教を“手段”として利用・悪用するのは“偽善”以外の何者でもない。とくに、金儲けに利用、権力維持の目的で宗教法人を運営しているに至っては、これほど重い「罪」はない。ある心理学者は「宗教は人間をコントロールできる唯一の存在である」と言ったが、人間、信じている時の心理状態は夢遊病と同じである。オウム真理教ではないが、殺人をも「善」と解釈してしまう洗脳、それが宗教の恐さだ。アメリカにも多くの宗教団体、無数のオカルト教団が存在しており、それぞれが好き勝手な教義をかざして「自分たちの信」に結束している。だが、それらが表社会に出ることはほとんどない。日本はその点、アメリカよりも「信仰の自由」が罷り通る社会のようである。とくに、宗教的には絶対、中立であらねばならないマスコミでさえ、特定の宗教団体に肩入れしているような振る舞いを平気でしている始末。たしか、福永被告が絶頂期の頃、某大手週刊誌で「福永法源の対談連載」を展開していたと記憶する。彼は毎週、著名人との対談で「神」だの、「天」だのと吼えていたわけだが、対談記事を読んだ読者の中には福永被告の言葉に影響されて入信した人もいるはずである。日本では、社会的責任を背負っている「公人」が特定宗教団体に肩入れしたり、また、有名人が広告塔になったりしていることに何の疑問も感じないようだ。無理もない。日本人は「イワシの頭も信心から」と思っている国民なので何事も…、どんなものでも信じさえすれば救われると“信じている”ようである。

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2005.07.10

<新連載開始>「NYから眺めたフジヤマ」byマイク・アキオステリス(日本通米国ジャーナリスト)28  「日本は詐欺師たちの天国」 

六月二十八日、「リッチランド」(東京都)なる詐欺会社が出資法違反容疑で捜索された。同社は財宝を積んだ沈没船の引き揚げ計画や、健康食品を会員に買い取らせるなどして、マルチ商法手法で会員数を拡大。販売利益を別の投資プログラムへ出資させる名目で、一万人以上から総額約四百億円もの投資金を集めた。それにしても、財宝を積んだ沈没船とは考えたものだ。まるで、21世紀の宝探しである。こんな幼稚な詐欺話で数百億円が6集まるとは、日本という国はやっぱり、金持ち国家である。これまでにも「八葉グループ」(被害額約五百億円)、「ジー・オーグループ」(被害額約百八十億円)など、同じ手法、同じパターンの詐欺事件が摘発されている。この手の詐欺事件の特徴は、どの手法も『百万円を出資すれば一年で倍』…、ひどいのになると『三ヶ月で2倍』と謳っている点だ。それにしても、投資すれば三ヶ月で倍になるとは、ありえない話…、サルでもわかりそうな詐欺話である。ところが、日本人は簡単に、単純に、安易に騙されてしまう。それも一人や二人ではない。数万人単位である。こんな詐欺話を簡単に信じてしまう背景には、日本人にしか通じない“キーワード”があるようだ。まずは「広告塔」である。日本人は有名人・芸能人に弱いので、それなりの著名人を動員すれば効果は絶大となる。さらに、日本人は何事も、形式、建前、肩書きで判断するので、説明会・発表会などの催しは一流ホテルでする。すると、「一流ホテル=一流企業」と思ってくれる。最後に、日本人はビジネスにやたらと、「情熱」「夢」「ロマン」を重ね合わせたがる。そこで、詐欺師の会長や社長が、「人生・ロマン・愛…」を連発しては、どこかの教祖様を思わせる口調で“熱く”語ればいいわけだ。これだけの舞台装置で数百億が稼げるのだから、手を変え、品を変えて登場するのは当然である。ところが、である。騙されたとわかった後がなんとも“日本的”である。被害者の多くが、100万円の金が一年間で300万円、500万円なるとの“己の欲”をして投資する以上、本人にも責任がある。もちろん、詐欺犯の罪、罰は当然ではあるが、被害者側の“欲”もまた、問題である。ところが日本では、当事者の責任を問う声はあがらない。欲をして被った被害者であっても“被害者面”して騒げばなんとかしてくれる…、そんな甘さが渦巻いている。アメリカは当事者責任が徹底している国ゆえ、この手の詐欺はあまりみかけない…、いや、こんな低次元の舞台装置では誰一人騙せない。そこで、米社会で登場する詐欺はフィッシング、個人クレジット盗用など、より巧妙な、より複雑な手法が動員される。なかには、詐欺なのか新しいビジネス・モデルなのかわからないものもある。世の詐欺師たちは違法な手段をもって金を得ようとして、あらゆる状況を想定しては、その裏をかく手法、方法を研究している。そして、次から次へと新手の詐欺を考え出す。ところが日本では、“そのような研究・努力”は必要ないようだ。簡単で単純な舞台装置でも数百億円が集まる…、電話一本あれば数億円も不可能ではない。こんなにも簡単に騙される国民は多分、世界でも日本だけだろう。無理もない。日本は政府からして危機管理ゼロ、個人に至っては「どうぞ騙してください」といわんばかりの無防備社会である。(写真・大神源太という詐欺師もいました

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2005.07.02

<新連載開始>「NYから眺めたフジヤマ」byマイク・アキオステリス(日本通米国ジャーナリスト)27 映画「男はつらいよ」と日本人 

2この6月28日、映画「男はつらいよ」のおいちゃんこと、松村達雄さんが死去した(享年90歳)。松村さんは「男はつらいよ」シリーズに代表されるように、温かく深みのある名脇役として多くの人に親しまれた俳優だ。この報をインターネットで知った瞬間、寅さんの顔が懐かしく浮かんできた。アメリカの友人たちが、私に「日本・日本人ってどんな国民?」と聞いて来る時がある。私が日本のことに詳しいと思っているからだろう。このような時、私は「『男はつらいよ』という映画を観たらすぐに理解できるのに」と言いたくなるのだが、「男はつらいよ」の英語バージョンはない。あったとしても多分、寅さんや寅屋の人たちを理解するには相当な時間を要するだろう。そこで私は、命をも惜しまずに敵艦に突っ込んで行った神風特攻隊も日本人、世界で最も優れた製品を作るのも日本人、電話一本の「振り込め詐欺」に年間数百億円もの金を騙し取られる正直さ、お人好しも日本人、戦後60年経つというのに未だ隣国とぎくしゃくした関係で向かいあっているのも日本人、3親切で勤勉で…、私の印象に刻まれている日本人像を話してあげる。でも、彼らは多面すぎる特徴をしてもう一つ、理解が追いつかない表情をする。無理もない。こういう私もまだ、日本について半分もわかっていないのだから。ただ、日本の一般的庶民たちは「男はつらいよ」に出てくるような人たちではないだろうか、と思ったりする。とくに、渥美清さん演じた寅さんは、義理と人情を大切にし、短気でお人好し、小心で見栄っ張り、相手の顔色を気にするかと思えば自分勝手、正直者でおせっかち、そして、単純で善人…、あの映画はまさに、日本人を描いた最高傑作の映画だろう。あのような映画は絶対、日本人にしかつくれない。かといって、ストーリーや演出が特別におもしろいというわけでもない。映画のストーリーは毎回、同じようなパターンだ。でも、そこには、日本人でしかわからない味、共感が存在しているようである。多くの人たちが映画館に足を運ぶのも、そこで繰り広げられるドタバタ劇が自分たちの周囲で起こっている話だからであり、自分の周囲にいる人たちと同じような人たちが出てくるからだろう。そのいい例が「妹のさくら」である。日本人男性の多くが、「さくら」のような女性に憧れる。献身的で忍耐強い女性、なんでも許してくれるやさしい女性である。しかし、そのような女性たちは今の日本にはいない。最近の日本の男たちは完全に、「雄」の本能を削ぎ落とされ、飼いならされてしまった状況に甘んじているようである。「亭主留守で元気がいい」と張り切っている妻たち、ヨン様に夢中になっているおばさんたちをして、日本の男性は益々滅入っているようだ。しかし、その滅入っている日本の男たちが、日本を世界第二の経済大国に築きあげた。正直、どこからそんなエネルギーが生じたのかと、不思議に思える。日本という国が益々わからなくなってくる。寅さんの国も日本、GMを脅かしているトヨタ自動車も日本…、日本のような国は多分、世界でもめずらしい国なのだろう。1996年に寅さんが亡くなり、続いて寅屋の裏で印刷工場を営んでいたタコ社長も亡くなった。そして今、おいちゃんも逝ってしまった。愛すべき日本人たちが一人二人と逝ってしまい、古き良き日本が遠ざかっていくようだ。

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2005.06.29

<新連載開始>「NYから眺めたフジヤマ」byマイク・アキオステリス(日本通米国ジャーナリスト)26  ニッポンの国色は「玉虫色」 

人間の考えは千差万別、どんなに素晴らしい意見とて必ずそれに異を唱える人が存在するものだ。そこで登場したのが民主主義の鉄則、多数決の論理である。49%は51%の意見に従わなければならないとし、それをもって3採択するというルールだ。ところが、独裁者や権力者は時に、多数決の論理を無視する。自分の意見を通して、残りの99%の意見を無視する。地球上には今なお、多数決の論理が無視されている独裁政権が少なくない。でも、民主主義国家と自認する国家では一応、多数決の論理が働いているようだ。ところが日本の場合は、多数決でも、独裁でもない。51%が49%に対し、多数決の原則を頑なに強いるのではなく、49%の意見をも考慮に入れ、なにがしの配慮を施す。して、そのためには51%の意見を少し和らげ、49%側に傾ける処置が必要だ。51%の意見そのものよりも、それを少し崩してでも49%の数値を下がることを重視する。これを日本では「玉虫色」というらしい。日本人は「和」の精神を尊ぶ国民性ゆえ、反対している存在がいること自体、気にするようである。28日、それまで頑なに郵政法案の修正案を拒んできた小泉首相は急遽、修正案を受け入れた。でも、内容は限りなく「玉虫色」の修正案となっている。結局、修正案を受け入れたのではなく“政府の意見”と“反対派の意見”を巧みに混ぜ合わせたものを「首相が受け入れた」という体裁をとっただけである。両者ともに、それぞれの解釈に照らせば一応納得できうる解釈が成り立つからである。なんと巧妙なやり方だ。でも、修正は修正とばかり、一生懸命に建前と形式を取繕っている。「玉虫色」は政治の世界だけでない。日本では何事も「玉虫色」の決着にて「一件落着」となるらしい。ニッポン国を染めている「玉虫色」を見渡してみよう。まず、政教分離の大原則に照らせば公明党の母体は宗教団体、それでも与党に名を連ねているところが「玉虫色」。小泉首相があれだけ靖国神社参拝にこだわっているならいっそのこと8月15日に参拝すればいいものを、そうしないところが「玉虫色」。NHK会長が辞任しても顧問に居残るところが「玉虫色」。ホリエモンのフジ買収に激怒としていたフジだったが結局、株の買い取りに応じてしまったことも心情的には「玉虫色」。武富士のオーナー経営者が刑事事件で有罪判決を受けても「曖昧」の処分で済ませ未だ経団連会員を除籍されないのも「玉虫色」。大手芸能プロ・ジャニーズ事務所のオーナー経営者が未成年者にいかがわしい行為をしていると告発されても、それを報じるべきマスコミの姿勢は「玉虫色」。お金をもらって身体を売るのは明らかに売春だが、それを「援助交際」として安易に眺めているのも「玉虫色」…。すべてを曖昧に、すべてを玉虫色に覆ってしまう社会が、先進国といわれる日本の「国家色」なのだろう。日本に「玉虫色」なる文化が根付くようになったのは、日本人は真実や真相がどうであれ、「波風立たせず穏便に…」という考えを優先したいからであろう。だが、これは一見、和を優先し、争いを避けんとする知恵に思えるがその実、これほど「無責任」なものもない。国会も社会も、家庭でも、真実や善悪を明確にしていくところに秩序がつくられるものである。日本は民主主義国家なのだろうかと疑問が生じて来た。

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2005.06.25

<新連載開始>「NYから眺めたフジヤマ」byマイク・アキオステリス(日本通米国ジャーナリスト)25 文春と新潮の「若貴決戦」

日本では今、若貴の兄弟バトルが火花を散らしている。相撲はニッポン国の国技、品性をなによりも重んじると聞いている。ところが、元横綱の兄弟は泥沼の戦いを繰り広げている。先代の故二子山親方は相撲界の重鎮であ2る先代若乃花の弟、不倫騒動で離婚した妻は元女優、長男の嫁が元スチュワーデス、次男の嫁は元アナウンサー…相撲界の華麗なる一族が振りまいてきた話題もまた、中途半端なものではない。日本のマスコミにとって、これだけ華麗なる土俵で展開される兄弟バトルは願ってもない“ネタ”であろう。さっそく、若貴兄弟の決戦に日本中のメディアが“マス席”から報じている。スポーツ紙はスポーツ紙のレベルで、女性誌は女性誌の次元で、テレビは劇場型バラエティー番組に仕立てあげている。まるで、大事件を現場から伝えているようなフィーバーぶりだ。マスコミ業界の論理もまた、需要があるから供給に徹しているのだろう。実際、この手のスキャンダルには目がない日本人にとっては、これほどの好奇心、興味がそそられる話題は“貴重な暇つぶし”だからである。ところが、週刊誌の雄と自認している「週刊文春」と「週刊新潮」までが参入、派手な報道合戦を繰り広げている。相撲界のスキャンダルは国民的関心事…と言わんばかりに紙面を割いており、両誌の若貴関連記事は他のメディアを圧倒している。テレビの報道も両誌の記事を検証する視点で報じている。それも、ライバル意識剥き出しの報道合戦ときている。両誌は多分、途中から矛先を相手ライバル誌に向けたようだ。週刊新潮は東横綱元若乃花を支持、週刊文春は西横綱元貴乃花の肩をもち、両陣営に分かれての報道合戦だ。先週発売の週刊文春は「週刊新潮『貴7つのウソ』の大嘘部分」との見出しで大特集を放っている。文春は週刊新潮が指摘した貴乃花の嘘について「週刊新潮の記事こそ大嘘」と言っている。そればかりか、「あなたは若貴どちらを支持する?」との、読者アンケートまで行っている。親切なことだ。それにしても、文春の広告に掲げられた「紹介者が明かす“内縁の妻”のおねだり」の小見出しは“さすが”である。故二子山親方の最後を看取った愛人の“おねだり”を兄弟喧嘩に連鎖させているのだ。このような見出しなら、若貴バトルに興味がないサラリーマンもつい、読みたくなるだろう。その結果、販売部数が増えるというわけだ。ここまできたらもはや、名門・文藝春秋社が発行している週刊誌とは思えないレベルに感じられる。新潮も似たり寄ったりである。週刊文春、週刊新潮といえば良識…、いや、日本のマスコミにあっては“それでもましな方”という意味での良識だが、両誌までもが「若貴報道」に入れ込んでいることに、「ブルタスお前もか!」となってしまった。いくらマスコミが飛びつくようなネタが溢れている花田家とはいえ、先代が亡くなると同時に繰り出される「節度なき報道」は、行き過ぎである。「他人の不幸は密の味」といった言葉もあるようだが、どこか一社ぐらいは、マスコミの過激な報道に黄信号をともす記事を掲載してもよさそうなものである。日本には「故人の名誉」を尊ぶ文化があると聞いている。ならば、55歳の若さで亡くなられたた先代の、葛藤と寂しさに塗れた人生を視聴率や販売部数をあげるネタにしてはなるまいに…。

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2005.06.21

<新連載開始>「NYから眺めたフジヤマ」byマイク・アキオステリス(日本通米国ジャーナリスト)24 日本と韓国の「隣国関係」

最近、米有力メディアに「韓国サムスン」の広告が頻繁に登場するようになった。サムスンの広告はニューヨーク五番街、タイムズ・スクウェアーの名物ビルボードにも設置されている。サムスンの勢いはかつての、日本のソニーを彷彿させる。サムスンだけではない。米消費者アンケートで韓国のLG携帯電話が一位に選ばれた(2004年2度、米有力誌が実施した携帯部門)。韓国のヒュンダイ自動車も猛烈な勢いでシェアーを伸ばしている。韓国の自動車は97年頃まで、アメリカで販売される輸入車の中で最も品質の悪い車であった。それがここにきて、日本車の品質に迫っている。ヒュンダイの年間生産台数360万台、日本のホンダを抜いて世界8位。数年後には500万台で世界5位を目指している。米市場における韓国企業の躍進は過去の「安かろう」、「悪かろう」から「日本製品に劣らない品質」として認識されだした。市場経済主義のアメリカでは、その製品がどこの国の製品であろうと関係ない。値段と品質の市場原理に左右されるだけだ。ところが、日本での「韓国製品」はなぜか、米市場における認識に遠く及ばない。韓国製品の品質がいくら向上したとはいえ、品質には世界一厳しい日本の消費者にはまだまだ日本企業と肩を並べるまでには至ってないから…或いは、日本市場でのマーケティングに問題があるのだろうか、そう思っていた。ところが、そこにはどうも、日本に根強く残っている韓国に対するイメージ、先入観、日韓の歴史をして刻まれている「優越感」が邪魔をしているような面がある。ちょうど、アメリカが長年にわたって日本の技術力、優秀性を認めようとしなかったのと同じである。素直に認めることのできない間柄…米市場では認められても日本では認められない心情こそ、日本人の正直な“対韓感情”かもしれない。日韓は「隣国」である。ここで言う「隣国」とは地理的に近いだけでなく、文化的、歴史的にも近い国のことである。アメリカの場合はカナダ、フランスとドイツ、シンガポールとマレーシア…、日本の場合は「韓国」である。実際、日韓は地理、歴史、文化だけでなくDNAにも多くの共通部分を有していると思えるほど近い間柄と聞く。例えば、NY五番街を歩いていると向こうから歩いてくるビジネスマンが日本人か、それとも韓国人か、私にはわからない。また、日本には地名をはじめ、朝鮮半島から渡来した「名残」がたくさんあるようだ。これだけ近い「隣国」は多分、世界でも稀であろう。ところが「隣国」の関係ほど難しいものはない…、いや、やっかいなものはないのか。多くの国が「隣国」との関係に神経をすり減らすのも、隣国ゆえの歴史、自尊心、ライバル意識を交差させるからなのだろうか。戦後60年、国交から40年が経つのに今尚、両国は過去に縛られているようだ。そればかりか、事ある度に過去に捉われてギクシャクした関係を繰り返している。いつまでたってもお互い、「側の論理」と「建前」を並べて“ため息”をついている。人間、殴った方はすぐに忘れるも、殴られた方はいつまでたっても忘れないものだ。20日にソウルで行われた日韓首脳会談もまた、隣国の近すぎる「複雑さ」ゆえ、溝を埋められなかったようだ。とすれば、後は「ヨン様」にでも期待するしかないのだろうか。

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2005.06.13

<新連載開始>「NYから眺めたフジヤマ」byマイク・アキオステリス(日本通米国ジャーナリスト)23 日本の「クールビズ狂想曲」

6月1日から温暖化防止を目的にした夏の軽装化(クールビズ)が始まった。軽装だと体感温度が2度下がるのでその分、冷房に費やされるエネルギーが節約できる。政府も「クールビズ」を民間企業や地方自治体に呼びかけている。マスコミもさっそく、各界著名人たちのクールビズ・ファッションを紹介。して、6月1日から一斉、ノーネクタ3イのビジネスマンたちが街に溢れ出した。東京・丸の内の文部科学省では、普段通りのスーツ姿で通勤し、庁舎に着いてから、上着とネクタイを外すという慎重派の職員までいたそうである。日本のサラリーマンたちは長年にわたって、服装の自由を“制限”されてきたようだ。実際、日本ではどんなに暑くても、ネクタイをしめないわけにはいかない。また、ノーネクタイで出勤すると無礼、非常識、変わり者…の視線が注がれる。無理もない。スーツにネクタイは日本のサラリーマンにとって「制服」と同じだからである。それも、派手なスーツや色物のワイシャツはタブーときている。その結果、黒かグレー系統の、ドブネズミ・ファッションが定着してしまった。日本の、あの蒸し暑さではスーツにネクタイは絶対、暑苦しいものだ。でも、日本のサラリーマンはドブネズミ・ファッションを忠実に守ってきた。周りの目を気にする日本人は常に、枠からはみ出した行動は何事も慎まなければならないと自分を縛る。たとえそれが理に適ってなくても…納得のいかないことでも建前、形式である以上、そこからはみ出すことはしない。個人の自由よりも社会的形式を優先する。スーツ姿は「気が引き締まる」と言いながらも結局のところは、それが決まり、形式、常識だから着ている。なんとも日本らしい光景である。日本では6月1日から夏服、10月1日から冬服と、衣替えの時期まで決まっている。この日を境にして、学校や官公庁、銀行などの制服を着用する所は一斉に衣替えをする。みんなと足並みを揃える国民性はまさに、「赤信号、皆で渡れば恐くない」の社会だ。最近の若者はこうした決まりに縛られず各自、自由な服装をしているようだが、それでも社会全体を見渡せばまだまだ目に見えない決まりに縛られている。服装一つでも上からの“許し”がなければ我慢する国民など、世界でも稀である。でも、もう大丈夫だ。首相や経団連会長までが「クールビズでいきましょう」と言っているのだから、大手を振ってネクタイをはずせる。ところが、ノーネクタイに慣れてないからか、なかには何ともいえないクールビズ・ファッションを披露している人もいる。彼らに感じる違和感をして、「やっぱりスーツやネクタイの方がいいかもしれない…」と後悔めいた気持が込み上げる。とくに、政治家のそれは見てられないほどだ。日本の政治家はそれでなくても軽いのに、クールビズで一層その軽さを際立たせている。なにも、個人のセンスを言っているのではない。ただ、いくらノーネクタイとはいえ、国民から選ばれた「議員センセイ」である以上、人格を疑われるようなファッションは困る。とくにひどいと思ったのが麻生太郎総務大臣だ。シャツからのぞかせた金のペンダント、あれはまるでアジアで暗躍している悪徳武器商人のイメージだ。しかし、麻生大臣の薄ら笑いとペンダントが不思議にぴったりと似合っていた。

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2005.06.05

<新連載開始>「NYから眺めたフジヤマ」byマイク・アキオステリス(日本通米国ジャーナリスト)22 日本の“延々裁判”         

運転停止中の高速増殖炉「もんじゅ」を巡り、住民らが設置許可の無効確認を求めた(訴訟開始は1985年)上告審で、最高裁第一小法廷は30日、二審の高裁判決を破棄し、国側の逆転勝訴が確定した。同訴訟は最高裁まで20年かかったわけだが、日本では二十年以上の裁判はざらである。リクルート事件の一審判決は初公判か11ら十三年目。「甲山事件」で無罪の判決が言い渡されたのが事件から二十四年目。検察が求刑した十三年をはるかに上回る年月である。盛岡地裁の法人税法違反事件に至っては、起訴から判決まで二十五年半かかっている。さらに、オウム麻原被告に一審判決が下されたのが裁判開始から七年目、この調子だと、最高裁にて刑が確定する頃には多分、事件が風化しているだろう。冤罪を防ぐためにも公正な裁判を実施し、事実関係を明確にするのは当然とは思うが、被害者感情、世論を考えると、多くの国民が裁判の敏速化を望んでいるはずだ。日本の司法制度、司法サービスはかなり遅れている。日本で裁判が長期化するのは訴訟の件数に比べて法曹関係者の数が少ないからともいわれている。裁判官や検事も少ないが極端に少ないのが弁護士だ。英国の弁護士数は80800人、ドイツが85800人、フランスが29300人、ところが日本は16300人である。それも、そのうち四割は東京・大阪に集中し、弁護士が100人に満たない県が28県、全国3300余の市区町村の85%には、弁護士が一人もいないというから驚きだ(司法制度改革推進本部顧問会議の資料を参考)。これでは十分な司法サービスが受けられない。日本の裁判が「延々…」となっているもう一つの要因が審理の進め方にある。日本での裁判審理は書面のやりとりが中心となっている。裁判官、検事、弁護士が出席する「裁きの場」としての体裁は整っているのだが、実際の進行は書類のやりとりがほとんどだ。自らの主張は文書で提出、相手方に対する反論もまた、次回の公判で文書となる。双方が文字通りの弁論を戦わせることは少ない。そして、次の公判は早くて一~二か月後だ。一回の公判で審理が少ししか進まず、次の公判が数ヶ月後というスロー・ペースなのである。先の米大統領選挙でフロリダ州での開票をめぐる最高裁審理がテレビで中継されたが、双方の弁護士が法廷で文字通りの弁論を繰り広げた。レンキスト連邦最高裁長官自らが双方の弁護士に矢継ぎ早に質問を浴びせていたのに対し、質問された弁護士はその場で答えなければならない。何事においても文書で回答するという日本では考えられない展開である。日本で以前、法廷で居眠りばかりしている裁判官が裁判官訴追委員会に訴追請求されたが、日本弁護士会でも法廷での居眠りが問題になっているそうだ。これも、日本の裁判は文書のやりとりが中心で、弁論と言っても文書を朗読するに過ぎず、居眠りしても裁判官が務まるらしい。日本の司法関係者は弁論を戦わせることを苦手とし、法廷は文書のやりとりをする場となってしまった。これでは二十年以上の裁判は当然である。裁判とは、人々の記憶に残っている間に裁かれるべきものである。一昨年、首相官邸で開かれた司法改革会議で小泉首相は、新聞の投稿欄に掲載された川柳を引用し、裁判の迅速化を訴えていた。その川柳というのが「思い出の事件を裁く最高裁」という句であった。

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2005.05.31

<新連載開始>「NYから眺めたフジヤマ」byマイク・アキオステリス(日本通米ジャーナリスト)21安倍議員のパフォーマンス発言②

昨年春、中国の反日グループが尖閣諸島へ上陸した時、日本政府は上陸した七人を逮捕、二日後に強制送還した。日本政府が逮捕からわずか四十八時間で事態を収拾したのは、日中関係に配慮したからである。事実、日本の関係者は、「事態を長引かせれば活動家たちが英雄視されることにも配慮した」と述べた。反日活動家が英雄視される国…、反日感情が渦巻いている国である。今の日中関係はあの時以上にぎくしゃくしている。とくに、中国は小泉首相の靖国神社参拝に神経を尖らせている。靖国神社は1869年に戊辰戦争における戦死者を慰1111霊するために「東京招魂社」として創建。その後、「靖国神社」に改称された。他の神社が内務省の管轄であるのに対し、靖国神社は陸軍省と海軍省の管轄であった。戦後は政教分離により宗教法人となって国家との関係は断たれたが、第二次世界大戦にて「A級戦犯」とされた人や、遺族が望まない韓国・台湾人軍人、軍属が祭られているとの理由から、国内でも政治家による参拝に賛否両論の声があがっている。昨年の元旦、小泉首相は四年連続四回目の靖国神社参拝を行った。元旦を選んだのは靖国参拝への反発を和らげるためである。小泉首相は参拝に際して、「日本の平和と繁栄は戦争の時代に生きて、心ならずも命を落とさなければならなかった方々の尊い犠牲の上に成り立っている」と述べた。小泉首相の言葉は偽りなき心情とも思える。だが、中国と韓国は強く反発している。中国は、「関係修復は我々の希望でもあるが、どういう方法を採るかは日本側が考えるべきことだ。周辺国の感情を考え、何をすべきか、今こそ行動すべきではないか」と牽制する。彼らは小泉首相がいかなる心境で参拝しようが一切、許せないとしている。自分たちの国を侵略した軍国主義者が祀られている神社に参拝すること自体、戦争を正当化する行為に他ならないと主張する。日本人は、死んだら人は皆、神仏になるとの信仰意識に根付いてきた。もちろん、中国にも「井戸を掘った人の恩を忘れてはならない」との言葉がある。だが、同時に中国では、生前の罪を罰するために、死んだ人の墓をも掘り起こす文化を有している。国家のエゴや史観が「側の論理」にて解釈されるものである以上、彼らの言い分を否定することはできない。絶対に交わせることのできない視点の違い、国民性の違いに外交関係の難しさが映し出される。そして、日本がもし日本側の解釈で言うところの「あの戦争は欧米列強に対抗しなければならない国家生存のための戦争…」との反論で向かい合ったなら、また、戦後の東京裁判は、「戦勝国(それも帝国主義国)による、不公平な裁判」と言ったなら、たちどころに盗人猛々しいとなり、火に油を注ぐことになるだろう。一見、不公平な立場に思えなくもない。でも、日本は敗戦から今日にまで、戦争に負けた事実をして「日本の戦争は侵略ではなく国家としての正当な行為」との言葉は絶対に言えない…言ってはならないとし、アジアに対する「謝罪」を口にしてきた。でも、心から謝罪したリーダーたちがどれだけいたかはわからない。なかには、「なぜ謝罪なのか」と、疑問を抱きながらも外交儀礼のポーズだけを披露したリーダーも少なくなかっただろう。また、彼らも日本の謝罪は“言葉だけのポーズ”と知っている。それでも、一応、外交における辻褄だけでも合わしてくれればいいと、彼らも建前にて向かい合ってきた。敗戦国の立場とは、矛盾した解釈をも受け入れざるをえないのであろうか。結局、靖国神社問題は東京裁判史観を受け入れるかどうかの問題と重なる。そして、勝者が敗者を裁く場が「国際法廷」との名分でオブラードされ、そこでの判決が「真実」として世界に公告されてしまった以上、それを覆すことは容易なことではない。だが、過去をいつまでも消化させられないのであれば、当時の事実関係をもう一度、国際舞台に立って唱え、日本の立場を関係国に理解させるだけの決意と覚悟が必要だ。多くの犠牲をはらってでも「歴史の汚点」を晴らし、過去を正すことで国家の主権、自尊心を貫くのも一つの選択であろう。しかし、それには生半可の覚悟では通用しない。それこそ、一戦を交える覚悟で向かい合わなければならないだろう。なにより、東京裁判を演出した主役・アメリカの思惑、アメリカの罪とも向かい合わなければならない。それとも、日本の精神、日本の自尊心を守ることは止め、悔しさが残るにせよ、日本の未来のためにも過去を潔く清算する方がいいのかーー答えを出さなければならない時期にさしかかっている。ところが、日本の立場、日本の心情を国際社会に理解させうるだけの外交力、日本の自尊心と立場を受け入れさせられる器量をもったリーダーが、今の日本の政治家を見渡してもいないのだ。安倍晋三も、しかりである。

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2005.05.29

<新連載開始>「NYから眺めたフジヤマ」byマイク・アキオステリス(日本通米ジャーナリスト)⑳安倍議員のパフォーマンス発言

ヒル米国務次官補は二十六日、呉儀中国副首相が小泉首相との会談を突然、中止したことについて「小泉首相と呉儀副首相の会談は実現しなかった」と語り、間接的な表現で中国側の対応に懸念を示した。そして、「我々はすべての懸案について、日中が高官レベルの対話を進めることを支持する」と表明、双方に対話を促した。米政府112高官が日中間の会談中止について公式の場で発言したのは初めてだ。米国もさすがに、日中関係がこれだけ悪化した以上、しゃしゃり出ないわけにはいかなかったようである。米国のアジア戦略において日中、日韓関係が拗れることは好ましくない。とくに、北朝鮮の核問題が浮上している今、日中韓が感情で向かい合うのは百害あって一利なしだ。米国は日本の外交に「なんと下手くそなやり方だ!」と、歯軋りをしているはずだ。アジアの盟主の座を狙っている中国にとって、ここらで日本に楔を打っておかなければならないわけだが、その楔の一手段が靖国、歴史教科書問題なのである。つまり、中国111が唱える靖国神社はあくまでも、外交における口実である。その裏には中国の強かな外交、将来における日中関係の布石をも含んでいる。日本の対中戦略もただ、感情的に向かいあうのではなく、もう少し大局的な視点から…、高度な次元からのぞまなければならない。ところが、である。そのへんの事をまったく知らない政治家が中国批判をして、己の存在を得意に翳している。自民党の安倍晋三幹事長代理である。安部議員は二十八日、札幌市内での講演で、小泉首相の靖国神社参拝について「小泉首相がわが国のために命をささげた人たちのため、尊崇の念を表すために靖国神社をお参りするのは当然で、責務であると思う。次の首相も、その次の首相も、お参りに行っていただきたいと思う」と述べた。安倍議員の言葉は一見、国際・外交問題に関心のない人にとっては勇ましくも、頼もしく映ったはず。さしずめ、中国の圧力に一歩も屈せずして、日本の主権を貫く若武者、といったイメージを振り撒いたことだろう。だが、事はそんな簡単なものではない。なにより、今の時期、あえてそのようなことを口にすること自体、政治家として失格である。彼は昔から、この手のパフォーマンスを得意とする。いや、こうした発言、パフォーマンスで人気を博してきた政治家である。彼が政治家として頭角を現したのはたしか、北朝鮮の拉致問題だ。北朝鮮による日本人拉致…、日本人にとってこれほど赦せない事件はない。機をみてさとい彼はさっそく、国民感情と世論を背景に「正義の味方」を演じた。日本と北朝鮮の、両首脳が交わした外交契約、その水面下で行き交わせるはずの駆け引き、外交戦略など、そのようなものは眼中になく、ただ、自分が主人公を演じられる視点で吠え続けた。さすがの外務省も、拉致被害者家族や国民感情を優先せざるをえなかった。こうして彼は、政治家として見事なデビューを飾った。今では、次期首相の声まであがっている。だが、安倍議員の“能力”や“資質”には疑問を感じずにいられない。少なくとも、政治家としての未熟さ、幼稚さは彼の右に出るものはいない。米国のアジア担当高官たちは内心、繰り返される安部議員のパフォーマンス発言に、「政治がなんたるかもわかっていないアベのバカ!」と思っていることだろう。(写真は靖国神社と呉儀中国副首相

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2005.05.24

<新連載開始>「NYから眺めたフジヤマ」byマイク・アキオステリス(日本通米ジャーナリスト)⑲ニッポンは二世政治家の天国

先日、私の事務所に日本人の友人が遊びにきた。雑談中に彼は、「ブッシュ大統領も二世だね」と言った。彼が「ブッシュ大統領“は”」ではなく「ブッシュ大統領“も”」と、「も」と言ったので、アメリカも日本と同じだと言いたかったのだろう。彼の言葉に私は、「ブッシュ大統領の父は元大統領だが、いわゆる日本の二世議員とはニュアンスが違う」…といった言葉を返した。ブッシュ大統領は二世である。だが、親の七光りで政治家になったのではなく、たまたま親父と同じ政界に足を踏み入れただけである。アメリカではいくら二世といえども本人に実力、能力がな2ければ相手にされない。ましてや、二世というだけで選挙に当選するなど絶対にありえない。米有権者たちはそんなに甘くない。それに比べると、日本は二世たちの天国である。とくに、政界や芸能界は二世だらけだ。何の能力もない輩たちが親の七光りで政治家になり、芸能人になっている。もっともひどいと思ったのは小渕優子衆議院議員だ。小渕前首相が亡くなられた時、小渕家の「家業」を継ぐべくして次女である彼女が立候補、見事に当選した。政治における能力、経験などは一切問590われることもなく、ただ前首相の「娘」であるというだけの当選である。彼女だけではない。小泉首相から中川大臣、安倍晋三、田中真紀子、小沢一郎…、日本の政界で騒がれている政治家のほとんどが二世・三世議員ときている。日本の有権者たちは二世・三世が好きなようである。日本の有権者にとっての選挙とは、国家の未来を見据えた一票ではなく『おらが村から首相を…』との、エゴの投票なのである。日本の政治家の資質を下げた責任は、政治家の能力や資質を量ることのできない有権者たちの、無知と無責任がもたらしたのであろう。そういう意味では、政治家よりも有権者が悪いのである。さらに、有権者以上に悪いのが日本のメディアだ。日本のマスコミは次期首相の声があがっている安倍晋三を「政界御曹司」、「サラブレッド」、「プリンス」と表しているがこれ自体、公平さを欠くものだ。中立であらねばならないマスコミは絶対、国民に誤解を与えるような称号を使ってはならない。そもそも何をもって「サラブレッド」なる言葉を使うのだろう。彼をサラブレッドと呼ぶからには、二世・三世でない他の政治家は「サラブレッドにあらず」と言っているのと同じである。日本のマスコミはそのへんのところの、公正な配慮ができないようである。マスコミの影響力は絶対的であるからして、国民を錯覚させるような表現は慎まなければならない。なにも二世・三世議員がいけないというのではない。二世でもそれなりの能力、資質があればそれはそれでいいのだが、なかには首を傾げたくなるような人物、変人までもが二世の看板で政治家になっている。そんな輩たちが要職について日本の未来を操っているかと思うと、背筋がゾッとする。家業や伝統が受け継がれていくことは素晴らしい文化だが、それが公の立場である場合には、そこに「家業の事情」を反映させてはならない。親から学び、親に感謝する気持は忘れてはならないが、親の人生と自分の人生を切り離して向かい合わなければならないのが政治の世界…、私的な部分を持ち込まないのが万国共通のルールである。そういえば北朝鮮の「金正日」もまた、二世である。

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2005.05.19

<新連載開始>「NYから眺めたフジヤマ」byマイク・アキオステリス(日本通米ジャーナリスト)⑱自称、大物タレント・大橋巨泉の“賞味期限”

週末、日本のビデオを観ていたら“あの”大橋巨泉が出ていた。大物ぶっている話し方、笑い方に接した瞬間、「日本のテレビ局はなぜ、こんな男を出演させるのだろう…」と思ったものだ。これは個人的感情から言っているのではなく(それも多少はあるが…)、大橋巨泉は国民との約束を反古にした“男”なのである。2001年6月25日、大橋巨泉は「有権者の皆さんへ」と題し、以下のことを有権者に述べている。「ウィーンに滞在中のボクの部3屋に、民主党の菅直人幹事長から電話がかかって来たのは5月21日のことです。ボクの辞書には、政治家になる項目は無く、過去の勧誘もお断りして来ました。まして今は、セミ・リタイアの身です。しかし、『一貫して小泉内閣批判を続けている大橋さんだから、お願いするのです』という菅さんの言葉には、説得力があった。(中略)。結局、立候補する事が、視聴者の皆さんへの、本当の『御礼奉公』になるのではないか、という結論に達したのです。(中略)。しかしあれ程計画し、実現させた自分の人生の優先順位で①に健康、②にパートナーは不変です。ただ、③の趣味をしばらくの間『奉仕』に代えるだけです。畏友・寺山修司が好きだったサローヤンの言葉、『男には、負けると解かっていても戦わなければならない時がある』をもって立候補の言葉とします」。調子にいい男である。つまり、自分は元々、政治家になる気はなかったが菅幹事長から、「三顧の礼」をもって頼まれたので仕方なく、立候補することになったと、それとなく自分を翳しつつ、人生の優先順位とやらの、①に健康、②にパートナーはそのままにして、③番目の趣味を政治に置きかえての立候補、と言い放った。いくら日本の政治が地に落ちたとはいえ、政治を「趣味」の延長線で弄ぶとは、なんともふざけた男である。ところが日本では、この程度の男でも十分、国会議員になれる。そればかりか、いろんなメディアに登場しては、政治を論じ、教育を語り、日本を切りまくる。日本のメディア界の基準は「資質より知名度」のようである。実際、二世、有名人、巧みなパフォーマンス、タレント性…、これらが日本における政治家の、最強の条件になっている。結局、彼は労せずして当選したのだが、すぐにケツを割ってしまった。「男には、負けると解っていても戦わなければならない時がある」との啖呵まできっておきながら、己の我が侭が通る場ではないとわかるや、「やーめた」と投げ出す…自分のことしか考えない無責任さである。また、「リタイア」と言わずに「セミ・リタイア」と、“セミ”を付けるところが、彼のセコサ、狡さに感じられる。実際、居住地をニュージーランドに移している彼にとって、リタイアと言ってしまえば今後、日本で稼ぐことができない。大橋巨泉という人物は常にテクニック、打算、自己中心的に生きているようである。大橋巨泉への個人攻撃となってしまったが、このような例は大橋巨泉だけではない。バラエティー番組でヒステリックに叫んでいる「かの国の元大統領夫人」、野球監督の妻というだけで騒がれるおばさん、首相の息子というだけの無能タレント…、賞味期限のきれた輩たちが「自称大物タレント」として罷りとっている国が、ニッポンである。

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2005.05.13

<新連載開始>「NYから眺めたフジヤマ」byマイク・アキオステリス(日本通米ジャーナリスト)⑰トヨタの快進撃と奥田会長の傲慢発言

世界一の自動車メーカーであるGMに黄信号がともった。米産業はこれまでに繊維、鉄鋼、家電、半導体…と、尽く振興工業国に追いつかれ、敗退を余儀なくされた。しかし、自動車産業は事情が違う。他のすべての産業を後者に譲っても、事、自動車産業だけは譲れない…、自動車産業は我々米国の技術力・産業力を世界に翳してきた「証し」だからである。それだけに、アメリカにとってゼネラル・モーターズ、フォード自動車、クライスラーからなる米ビックスリーは、自動車メーカーである前にまず、アメリカの自負心、自尊心なのである。ところが、ここにきて世界一の座を11「日本のトヨタ」に奪われようとしている。トヨタの05年3月期連結決算(米国会計基準)は、当期利益が1兆1712億円、1兆円を突破した前期を0.8%上回り、過去最高益を更新した。トヨタの快進撃に米政財界、米自動車業界は只ならぬものを感じている。これは一自動車産業の問題ではない。アメリカの産業界が味わう初めての挫折感、敗北感でもあろう。しかし、自由主義市場におけるフェアーな競争結果に異を唱え、クレームを入れることは出来ない。さらに、米現地工場にて生産されるトヨタ車ゆえ、貿易摩擦問題を持ち出すことも難しい。そんな時、トヨタ自動車の奥田碩会長が「自動車は米国の象徴産業で、昔のような経済摩擦、貿易摩擦は起きないにしろ、(日本の自動車産業に)何らかの影響が出る」との見方を示しつつ、「技術提携をしたり、値段をいじったりする必要がある」と述べ、米国市場でトヨタ車を値上げする可能性を示唆した。なんという傲慢な発言だろう。奥田氏の発言が米国民の心情を逆なでしたことは、想像に難くない。その言葉の裏には、品質のいい車を安い値段で売っているから競争力がある…ならば値上げすることで競争力を下げればいい、とのニュアンスを感じる。さらに、世界の自動車産業を発達させてきたと自負している先輩メーカーに対し、「トヨタが技術を供与してもいい」と言い放ったのだから、同じ自動車業界の人間にあるまじき発言である。もちろん、品質や価格、ハイブリットなどの次世代技術は、トヨタの方に軍配があがる。また、米メーカーの怠慢も問題だ。だが、そのことと奥田会長の発言は重ならない。11別の言い方、知恵からなる言葉があったはずだ。それを「値上げしてもいい」「技術を供与していい」との発言は“傲慢”のなにものでもない。奥田氏の発言にさっそく、日本でもホンダの雨宮高一副社長が「独占禁止法をどう考えているのか」と疑問を呈し、「消費者のことを考えない値上げ発言はおかしい」との声もあがった。すると奥田氏は、「私も日本経団連会長だし、トヨタ自動車でここまでやってきた人間だ。トヨタ自動車、あるいは一般的な経済人の見方としては値上げもありえるということを言った。それを“つべこべ”いろんなことを言うのは非常にけしからん」とまくしたてた。同じ業界で向かい合ったところの意見に対し、「つべこべ言うのは…けしからん!」と反発するとは、奥田氏は自分を“何様”と思っているのだろう。この程度の人物が日本の産業界代表の経団連会長兼トヨタ会長とは、経済大国を自認している日本には本物の経営者、真の企業家はいないようである。米政財界は今回の奥田氏の発言に、今後、どんな反応を見せ、どんなカードを繰り出すだろう。(写真はトヨタ奥田会長とトヨタのカナダ工場

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2005.05.07

<新連載開始>「NYから眺めたフジヤマ」byマイク・アキオステリス(日本通米ジャーナリスト)⑯億万長者番付にみる「日本の富豪」

米フォーブス誌の「世界の億万長者番付」が発表された。純資産十億ドル(約1050億円)以上の富豪は691人、合計資産額は242兆円。今回の一位は5兆1千億円のビル・ゲイツ氏、11年連続のトップである。日本人は50位内にも入っていなかった。たしか、バブル時代には十位以内に6人もの日本人が顔を出したのに…あの堤義明氏が世界一の富豪にもなった。日本のそれは所詮、「成金たちの宴」であったようだ。番付をみていくと77位にやっと、「サントリー」の佐治信忠氏が出てきた。1111180位に「アイフル」の福田吉孝氏、84位に「武富士」の武井保雄氏、103位に「新日本観光」の糸山英太郎氏、111位に「SANKYO」の毒島邦雄氏、同じ111位に「アコム」の木下恭輔氏…、200位以内に入っている日本人は全部で11人、堤義明氏は149位であった。今の日本の税システムでは富豪の出現は無理かもしれない。とにかく、世界第二の経済大国から選ばれた富豪は11人、この数を少ないとみるかそれとも、妥当とみるかは各自の裁量に委ねられるが問題は、億万長者たちの顔ぶれだ。アイフル80位、武富士84位、アコム111位…、日本を代表する億万長者たちが消費者金融の創業者で占められている。なんとも寂しい限りだ。彼らが億万長者に上がりつめた過程においては社会的批判、道義的責任も少なくない。実際、武富士の武井会長は今尚、社会的批判から逃げている。ゼロ金利時代に「ご利用は計画的に」との謳い文句で、高利で稼ぎまくってきた彼らに「富豪」の名称は似合わない。でも日本は「勝てば官軍」の社会、乗っ取りだろうが高利貸しであろうが一切、関係ないとの理屈がまかり通る。モラルや手段はどうであれ、利益を上げ、株式上場を果たせば一応、「一流企業」とみなされる。経営者にとってこれほど都合のいい国はないだろう。実際、消費者金融は今や、一部上場企業をして経団連メンバー、大手銀行と対等な立場で資本・業務提携を繰り広げる“大企業”である。その大企業を“サラ金”の意識で論じるのはそれこそ、差別的な視点かもしれないのだが…、ならば今後、億万長者らしき器量にて「富豪」の面目を保ってもらいたいものだ。それにはまず、稼いだ金を社会に還元することで、社会的意義を掲げてもらわなければならない。世界の富豪たちの慈善事業を挙げてみよう。ビル・ゲイツ氏は資産の38%にあたる3兆8千億円をエイズ対策や公立学校再編のために寄付。ジョージ・ソロス氏は純資産41%の5500億円を銃規制推進、旧ソ連圏での語学教育に。SAPの共同創業者クラウス・チラ氏は3520億円相当の株を財団に寄付、生物情報科学の研究を支援。デットターナー氏は国連に1200億円を寄付。デビット・ダフィールド氏が220億円など、この他にも多くの富豪が慈善活動に膨大な資金を注いでいる。そこへいくと、日本人の富豪たちは“みみっちい”ときている。資産の保全を図るため株を他人名義にして世間を騒がせ、友達をつくることさえ許されない「家憲」を頑なに守り通す二世富豪がいるかと思えば、1600億円もの贈与税申告漏れを指摘される消費者金融の二世がいる始末。とてもじゃないが世界のレベルには至ってない。慈善活動の世界ランキングなるものがあったら多分、日本からは誰一人、選ばれないだろう。
写真は、つい最近、違法取立て等で弁護士による専門の「被害対策全国会議」まで設立されたアイフルの福田吉孝社長)

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2005.05.02

<新連載開始>「NYから眺めたフジヤマ」byマイク・アキオステリス(日本通米ジャーナリスト)⑮ゴールデンウィーク特大号の『週刊文春』 

ニューヨーク五番街、ロックフェラーセンターの隣に日本のブックストアーがある。NY紀伊國屋書店(Kinokuniya Book Store New YorkShop)だ。ここで毎週、日本の雑誌を“仕入れている”。文藝春秋からフライデー、週刊フラッシュ、女性誌なども合わせ10冊ほど購入した。日本の雑誌は輸入書籍なので一応、日本より値段が高い。でも、数冊の週刊誌で「日本の模様」が眺められるのだから、安いものである。今日、世界中の情報がリアルタイムで入手出来る時代ではあるがニュース情報と雑誌はまったく、別の世界だ。私が真っ先に手にするのが「週刊文春」と「週刊新潮」だ。「両雄」の位置づけにある両紙はヌードやセックス記事が氾濫している日本にあって唯一、「女の裸」を売り物にしない「品位」を貫いている(活字による品位はこの限りではないが)。今週の週刊文春は二週合併号、「ゴールデンウィーク特大号」となっている。shukanbunshun050512編集記者たちにも連休は必要である。ページを開き原色美女図鑑から「文春の世界」に入った。文春を読み終えて後、後味の悪さを感じた。ページを開く前は少なからず、「文春らしさ」が当然、そこに展開していると思ったのだがページをめくっていくと、スポーツ紙や女性誌に氾濫している類の芸能記事がぎっしり。最初のページには一応、「中国許すまじ! 腰抜け小泉首相を一喝 石原慎太郎 緊急提言『いまこそ尖閣諸島に自衛隊を派兵せよ』」と、先日の反日デモに激怒している石原都知事の、“いつもの”過激な発言や中国関連記事が掲載されていたが、全体的な印象としては完全なる、芸能誌だ。見出しの一部を紹介する。「なぜ女は郷ひろみのもとを去っていくのか」「モー娘よりカレシを選んだ矢口」「矢田亜希子との結婚を平松投手に直撃」「安達祐実 21歳年上黒田アーサーに未練なし」「『なっちも終わりね…』人気絶頂あややが、トドメの一言」「長谷川理恵 石田純一を捨ててオイルまみれの日々」「『パンスト成金』神田うのと『ヒットご無沙汰』美川憲一」などなど、よくもこれだけ“どうでもいいような芸能ネタ”を掻き集めたものである。(同原稿を書き出す前、文春の芸能ネタについていけず一応、名前の挙がった芸能人をインターネットで検索、事前知識を仕入れた)。今人気絶頂にある18歳の「あやや」が元モーニング娘の「なっち」に何かを言っただの言わないだの、神田うのと美川憲一の仲が遠のいた、だの、本当に文春の記者たちが書いたものかと一瞬、疑ったほどだ。なにも芸能人やタレントの記事がいけないというのではない。ただ、その取り上げ方…“視点”が問題なのである。少なくとも、“文春らしき視点”…、見識と鋭さでしか炙り出せない芸能記事ならまだしも、「それがどうした!」と言いたくなるような記事の羅列である。まあ、こんな芸能ネタでも「天下の週刊文春?」が取り上げるとなると…、文春さんお得意の「絶妙な見出し」にて、読者の好奇心と興味を煽る「記事」に仕上がってしまう。発行部数の熾烈な競争が繰り広げられている中、部数を伸ばすためにはジャーナリズムや見識云々より、こうしたワイドショー的、バラエティー番組的な記事の方がより、読者受けするのが現実なのだろう。読者も読者である。今回は、文春の一読者としてあえて、大御所である「週刊文春」さんに苦言を述べさせてもらった次第である。

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2005.04.28

<新連載開始>「NYから眺めたフジヤマ」byマイク・アキオステリス(日本通米ジャーナリスト)⑭「手続き」と「形式」の国・ニッポン

外国人の母から生まれた後、日本人の父に認知された7歳の男児が「日本国籍を認めないのは不当」とした訴訟で、東京地裁は4月13日、「国籍法は法律上の夫婦の子(嫡出子)と非嫡出子とに不合理な区別をしており、法の平等を定めた憲法に反する」との判断を示した。同判決をインターネット上で知った私は、日本人の子だから日本国籍は当然、と思った。ところが4月25日、国側が控訴した。控訴の理由は両親が正式に結婚していないからだそうである。子どもの両親は内縁関係にあった。それでも、いくら内縁関係だとしても日本人の父親が「私の子」と認知した以上、子どもは日本人なのである。それを控訴するとは…呆れたものだ。1212もちろんこれは、国籍法における家族の定義、社会秩序を考えての控訴だろうが、それにしてもだ。肉親の定義が「血」よりも「婚姻届」にあるとするのはどう考えてもおかしい。地裁の裁判長も、「価値観が多様化している今日、両親が法的に結婚している家族だけが正常な家族と評価することは困難。国籍取得の可否を親の法的関係だけで区別するのは不合理」と述べている。こんな常識的な判断を国が受け入れないとは…、日本という国の「器量」が疑われる事件である。この件ばかりではない。日本では何事も「形式」や「前例」にて量られる。日本に滞在していた時に日本人の友人から聞いた話だ。その友人が中学校一年生の時、彼は正妻の子どもではないとして父親の葬式に参席することができなかった。そこで当日、彼は葬式会場の近くまで行き、遠くから父親の霊柩車に手を合わしたそうである。中学一年生の少年には酷すぎる体験である。たしか元首相の故田中角栄氏の異母兄弟たちもまた、父親の葬式に参列できなかったようである。正妻の娘である田中真紀子氏が頑なに、彼らの参列を反対したそうだ。実の子が父親の葬式に参席できない国など、世界中探してもないはず。こんなことは葬式だけでない。結婚式も似たり寄ったりだ。結婚式の時に「乾杯音頭」に立つ人物のほとんどが、新婦や新郎に関係のないセンセイときている。結婚式の形式上、乾杯音頭や祝辞を述べてもらう人物の配慮に神経を使わなければならない。このような話は日本中、無数に転がっている。なんという建前、形式社会だろう。真実よりも形式、理論整然とした事実よりも手続きにて判断される社会…、反対に、確信犯であろうと偽りであろうと、そこに形式と手続きさえ揃っていれば、正当となる。英国系銀行NY支店に勤務する知人が日本に駐在していた時、日本企業における「始末書」と「辞表」だけは、どうして理解できなかったそうだ。日本の会社では何かの不祥事を起こした場合、あるいは失敗して損害を与えた時には必ず、「始末書」を書かされる。心から反省し謝罪することよりも、始末書という「手続き」の方が重んじられるという。過ちを認めなくても始末書さえ出せば、それで区切りがつく。「辞表」も同じだ。会社が嫌で辞めるのに今更、「一身上の都合…」はない。でも、こうした「前例」にて維持されてきた以上、それに合わせて「真実なき建前」で取り繕わなければならない。寂しき社会だ。話が逸れてしまったが日本人の親から生まれた子に日本の国籍を認めない場合、日本は世界の笑いものになるだろう。そんな愚だけは、避けてほしいものだ。

(大阪・京都取材に3日間でかけていたため、記事配信を休んいました。明日から、平常に戻ります)

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2005.04.24

<新連載開始>「NYから眺めたフジヤマ」byマイク・アキオステリス(日本通米ジャーナリスト)⑬「ホリエモンを選んだ日本の若者たち」

日本の中堅・中小企業に入社した社員に「理想の社長像」を尋ねたところ、ミスター・ホリエが1位に選ばれた。理由には「新しいことに挑む行動力」「先見性、創造力」などを挙げている。同調査はライブドアとフジテレビが和解する前の4月上旬、商工会議所の研修を受けた345社、835人を対象に実施した。この報せに接した瞬間、やりきれない気持になった。ミスター・ホリエが選ばれたことよりも、彼を「理想」に据えた日本の若者への、やりきれなさである。1111ミスター・ホリエはフジテレビの買収騒動にて一躍、有名人、時の人になった。だが、その内容たるや「乗っ取り屋」に毛の生えた程度の…、マネー・ゲームの味を覚えてしまった若造が“経営ごっこ”で札束を振りかざしているに過ぎない。企業経営とはそんなものではないはずだ。少なくとも、株主からカネを預かっている上場企業のトップともなれば、最低限の社会論理、経営理念、社会との関り方ぐらいは知っていなければならない。ところが彼は、株式上場で得た資金で手頃な企業を次から次へと買収、株式分割を繰り返して株価を吊り上げてきただけである。そんな若造が「経営者」云々と言われること自体、ナンセンスな話だ。実際、日本中を騒がせたフジテレビの買収劇に際し、「これからの時代はテレビとインターネットの融合」などと、それなりの、まやかし論理を披露したものだが結局は、和解である。あのパフォー・マンスは一体、なんだったのだろう。フジテレビもフジテレビである。ライブドアとバトル真只中にあった時、国民的の関心事であるライブドアやミスター・ホリエに関する情報は徹底的に、自社の番組から排除し、「フジは公共放送の電波を扱う使命を担っている」、と啖呵まで切っておいて…、フジテレビの首脳陣もミスター・ホリエと同じく、一貫した経営理念などは持ち合わせていなかったようだ。企業経営を自分たちの都合でいかようにも弄べる日本の経営者たちが、なんとも羨ましい限りである。和解の記者会見でフジの日枝久会長とミスター・ホリエが笑いながら握手している報道写真を眺めつつ、日本という国には、資本主義の熾烈さ、企業経営の厳しさ、真の経営理念といったものは永遠に根付かないものだと確信した。ミスター・ホリエを「理想の社長」に選んだ日本の若者たちは、マスコミが煽った虚像と知名度に影響されてしまったようである。今の日本の若者たちに、企業における理想の経営がどんなものであり、どのような経営者が本物かなど、わかっているとは思えないからだ。ただ、質問に際し、経営者の名前がミスター・ホリエ以外には思い浮かばない…、他の経営者は知らなかったのだろう。そこで、“今騒がれている経営者”の名前を挙げておけば“無難”と思ったか、あるいは、一攫千金のマネー・ゲームこそが「理想の経営」と勘違いしているか、どっちかだろう。ミスター・ホリエに続いて星野監督(2位)、北野武(3位)、イチロー(4位)、坂本龍馬(5位)を挙げているが、要は何事も上辺や話題性、知名度でしか判断できないのである。こんな次元では、経済大国の日本ではまだまだ第二のホリエモン、第三のホリエモンが現れ、楽しいバカ騒ぎを演じてくれるだろう。まあ、日枝久会長が「理想の社長」に選ばれなかっただけでも救いである。

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2005.04.20

<新連載開始>「NYから眺めたフジヤマ」byマイク・アキオステリス(日本通米ジャーナリスト)⑫中国の反日デモと日本のメディア 

中国で起きた反日デモはこちら、米メディアも大きく取り上げている。米三大ネットワークは一部暴徒化した群衆が卵やトマトを日本領事館に投げつける画像を繰り返し流していた。とくに、投石を止めようともしない警備の警官をアップで映していたのが印象的であった。警官の表情から、「反日デモは容認せよ」との指示が出されていることが察しられた。つまり、反日デモを容認することで「中国の国民を刺激するとこうなりますよ」と、圧力をかけたのである。demo0416
この様子をニュースで観た日本人はこぞって、中国のパワー、中国の導火線に気付かされたことだろう。そして、小泉首相が靖国神社に参拝でもすれば今度は、これではすまされない、と身震いしたことだろう。今回の反日デモは中国の「外交カード」のなにものでもない。中国の強かさに比べると日本は、赤子のようなものだ。それにしても、デモの群衆が日本領事館に投げつけたのが卵やトマトというから笑わせるが、卵やトマトでは建物を壊すこともなく、人に怪我をさせることもない。ところが見た目には、無残な「画」となる。実際、警備の警官は大きめの石を投げようとする群衆には止めに入ったが卵やトマトとなると、フリーであった。日本総領事館が卵やトマトで無残な姿になっている「画」こそ、常任理事国入りを希望している日本への、メッセージなのである。卵やトマトは演出効果満点というわけだ。今回、中国の反日デモを報じた日本のメディアをみていると、冷静な分析はおろか、事実の裏にある日中間の現実、中国の強かさに鋭く切り込んだ報道は見当たらない。反日デモによる不買運動や日本経済への影響など、デモの余波については克明に報じるも、歴史問題が中国の政治カードに利用されている事実には、触れていない。いつも思うことだが、日本のメディアが「中国」を取り上げる場合、「右」「左」の論調に偏ってしまう。ジャーナリストとして向かうあう事実の前には、「右」や「左」はないのである。18日付の米ワシントン・ポスト紙は中国の反日デモに関連し、「歴史問題に正面から向き合おうとしていないのは中国」とし、「中国はアジアの指導権を握ろうとして日本を悪者に仕立てている」と、元東京特派員の署名評論を掲載した。同じ日の米ロサンゼルス・タイムズ紙も、「中国は東アジアでの支配力確立を目指し日本の地位低下を狙っており、日本はその政治ゲームの術中にはまっている」と論評している。19日のUSテュデイ紙も、「中国は日本の歴史問題を掲げる前にまず、毛沢東時代に無数の国民を餓死させ、(現在も)チベット占領を継続していることを省みなければならない」と、日本を非難する中国の矛盾を指摘している。また、米ネット・ニュース・サイトのワールド・ジャーナルは、「今回の反日デモは日本の戦争責任を政治カードとして利用する中国の強かさと、戦後から一貫して“謝罪を取り繕ってきた”日本の建前が生み出した騒動」と報じていた。「謝罪を建前で取り繕う…」とは、見事な視点である。米メディアは何も、日本がアメリカの同盟国だから中国を非難しているのではない。今回の反日デモに接したジャーナリストとしての視点をして、その背景に目を向けたのである。当事者である日本のメディアもそのへんのところをしっかりと、腰を据えて報じてもらいたいものだ。

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2005.04.16

<新連載開始>「NYから眺めたフジヤマ」byマイク・アキオステリス(日本通米ジャーナリスト)⑪日本を代表するジャーナリストについて

4月10日に放映された「サンデー・プロジェクト」のビデオを観た。当日のハイライトは、同番組の進行役を務める田原総一朗氏と米「Google」の創業者、サージ・ブリン氏の対談とあった。グーグル社といえば今や、世界で最も注目されている時価総額508億ドルのITベンチャー企業である。それだけに、田原氏がどのような変化球をもって若き経営者に迫るか、期待した。ところが、田原氏の質問ときたらまるで、学生放送部員のレベルであった。田原氏の質問を再現すると、『企業は誰のものだとお考えですか?』『Googleは企業買収にどう備えていますか』…、この質問に愕然とした。資本主義のメッカであるアメリカで「企業は誰のもの?」、との質問はない。少なくとも、経20011211済を少しでもかじっているジャーナリストなら、このような“レベル”の質問はしないはずだ。田原氏は多分、日本の「ライブドア騒動」に重ねて、米ベンチャー企業経営者の考えを照らしてみたかったのだろう。田原氏の質問にサージ・ブリン氏は、『企業は株主のものです』『わが社では企業買収の対策として…』と、当たり前すぎる「経営常識」を答えた。いわゆる「ライヤー・ビリティー(将来に起こりうるリスクに対して対応できうるあらゆる手段)」である。ところが田原氏は、サージ・ブリン氏の話に理解がついていけないような表情で聞いていた。通訳を介してのインタビューだから無理もないが、それを差し引いたとしても、名ジャーナリストの看板は到底、掲げられないレベル…、なにより、話ながら手を忙しく動かす「日本的動作」がなんともおかしかった。まるで、アメリカまで行って「朝まで生テレビ」の名調子を披露しているように感じられた。田原総一朗氏といえば日本を代表するジャーナリスト?にランクされているようだが、この程度のジャーナリストではとてもじゃないが、世界では通用しない。「朝まで生テレビ」を観て思うことは、この手の番組の司会進行役は、ゲストである論客の意見、考えを当日のテーマに沿って巧みに引き出しつつ、それをまとめ、核心に触れる流れに誘導しなければならない。ところが田原氏は、論客の見解や意見を自分の価値観や考えに照らして選別し、自分の軸に合わない意見は荒っぽく遮断したり、怒鳴ったり、攻撃したりと、派手に立ち回っている。いくら貴重な意見であろうとも、それが自分の不得意な分野の意見であった場合には、失礼極まりない進行にて「方向」を変えてしまうのである。そして、彼の得意分野ともいえる政界交友相関図にて入手した「情報」や「エピソード」を得意に語ってみせる。暇つぶしに観ている分にはいいのだが、テーマに関心を据えた場合、「渾然とした雑音」だけが頭の中をぐるぐる回ってしまうのである。同番組が長時間番組ゆえにあえて、「大晦日の市場」のような賑やかさをもって進行させているのかもしれないが、それでも、意見のキャッチボールが正常に行き交っているような印象だけは、与えてほしいものだ。誤解がないように言っておくが私は、田原総一朗氏の「人間性」には好意を感じている。先日お亡くなりになった奥さんの葬儀に政財界の重鎮を含め、約千人もの人が集まったのも、田原氏の人柄である。でも、人間性とジャーナリストの実力は、別なのである。

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2005.04.08

<新連載開始>「NYから眺めたフジヤマ」byマイク・アキオステリス(日本通米ジャーナリスト)⑩「東大」は日本最強のブランド

今、日本で騒動を巻き起こしているライブ・ドアのミスター・ホリエは「東京大学中退」だそうだが、これには驚いた。彼が元東大生だったことに驚いたのではなく、東大らしくない「型破りな個性」に、驚いたのである。「東大らしくない」との表現を用いたのは他でもない。私の中に刻まれている「東大卒」のイメージは官僚的、建前的、自信家、傲慢・・といったものだったからである。「東大卒」は学歴社会の日本では絶対的、最強のブランドになっている。何の取柄もないタレントでも「東大卒」ともなればたちまち、一目も二目も置かれる。そればかりか、ヌード・モデルやAV女優までもが「東大卒」で騒がれる始末。「東大卒」の威力たるや、水戸黄門が翳す「葵の紋章」のようなものだ。学歴というブランドに惑わされて本質を見失ってしまうところに、日本の限界を感じずにいられない。yasudakoudou1こうした現象はなにも、東大卒の当事者たちが作り出したものではなく、「東大」に対する信仰的偏見が作り上げ風潮である。東京大学に入りさえすれば一生、エスカレート式にエリート・コースを歩めるとばかり、幼い時から塾通い、お受験ブーム、偏差値教育に明け暮れている。なんとも哀しい現象である。これは東大だけに限ったことではない。ブランドの比重度はさておいて、早稲田や慶応もまた、似たり寄ったりである。日本という国は人間の価値をも「ブランド」や「知名度」に置き換えて判断しているようだ。実力や能力よりも学歴で量られる社会・・、人間性や個性よりも肩書きで印象付けられる社会、その結果、学歴しか翳せない輩たちが政財界の要職に就いては、自分たちが日本を動かしていると錯覚する。こうした錯覚が自信に裏付けされたものであるならいいのだが、その多くが、学歴を翳すだけの無能ときている。日本がおかしな方向に向かうのも頷ける。なにも東大が悪いというのではない。また、東大を出た人たちを否定するのでもない。東京大学は日本の最高学府、そこで学ぶには、それなりの能力を兼ね備えていなければならない。日本全国から集まった秀才たちが高度な学問をして磨かれ、研かれるだけに、中には、『さすが東大』と思わせる人材たちも少なくない。こういう私にも東大卒の素晴らしい友人たちが数人いる。だが、彼らと友人になった根拠は、彼らが一流大学を出たエリートだからではなく、彼らの個性と価値観をして共感したからである。実力社会のアメリカでは学歴など、まったく関係ない。よしんばあったとしても、どこの大学を出たかではなく、「何を学んだか」ということが重要視される。米メディアが政財界の人物を紹介する際、いちいち「○○大学卒」との記載は添えない。そんなものを掲げたら「それがどうした!」となるからだ。ブッシュ大統領やクリントン元大統領がどこの大学を出たかを知っている人は限りなく、少ないはずだ。どこの大学を出たかなど、そんなことには関心がないからだ。また学閥も存在しない。自分の関わっている職場やビジネスに「学閥のエゴ」を持ち込むこと自体、フェアーでないからである。そういえばノーパン・シャブシャブ事件の際、そこに関わったエリートの中に多くの「東大卒」がいたそうだが、東大を卒業して「ノーパン・シャブシャブ」で葬りさられるとは、これまた、限りなく日本的である。    

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2005.04.03

<新連載開始>「NYから眺めたフジヤマ」byマイク・アキオステリス(日本通米ジャーナリスト)⑨日本のマスコミたちの“恥合戦”

4月に入った週末、久しぶりに家でゆっくり過ごすことにした。3日から「サマータイム」が始まる。日本は「桜前線」で春の到来が告げられるが、アメリカはサマータイムが境になっている。それにしても、「桜前線」とは見事な言葉だ。このような言葉は多分、日本人にしか思いつかない感性だ。インターネットで日本のニュース・サイトにアクセスした。するとそこに、本紙の山岡氏が取り上げた「朝日新聞が武富士から5千万円」の記事が掲載されていた。「武富士=山岡氏」の因果関係を知っているだけに、他のサイトもチェックしてみた。他のマスコミも似たような報道であった。朝日新聞といえば日本を代表するメディアである。先日も、放映前のNHK番組に政治家が関与していることを批判し、「天下のHNK」と派手なバトルを繰り広げた「天下の朝日」である。ところが、その朝日新聞が武富士から5千万円を受け取ったというから、呆れる。このことを最初に報じたのが「週刊文春」だが、同誌の発行元文芸春秋社もまた、日本有数の媒体である。また、その文春の記事にちょくちょく噛み付くのが「週刊新潮」、その逆も少なくない。このようなことは放送業界も同じだ。他局はライブドアとフジTVのバトルを大々的に報じた。asapy_anime005もちろん、視聴率や発行部数の熾烈な競争ゆえ、それなりのライバル意識もわからないわけではない。しかし、相手マスコミの「非」と「負」を鬼の首でもとったように掲げる幼稚さは、まるで、日本のメディアは常に「仁義なき戦い」に明け暮れているように感じられる。マスコミだろうが、国家だろうがそこに、「非」や「負」がある以上、それを暴き、報じるのがマスコミの使命、義務である。ところが、日本の場合、他社の非を報じるというより、商売敵の非をここぞとばかりに、それも得意になって翳している印象である。これは裏を返せば、己の不祥事や恥は一切ダンマリと決め込むか、あるいは縮小して報じるかのどちらかとなる。実際、今回の朝日新聞の件でもそうであった。朝日新聞が武富士から5千万円を受け取ったことを記事にした『週刊文春』の新聞広告に際し、「朝日新聞」に掲載する広告のみ「人はそれをブラックジャーナリズムと言う」、の小見出しが黒く塗りつぶされた。20050331kuronuri日本には「目くそ鼻くそを笑う」という言葉があるが、まさに「目くそ」「鼻くそ」の違いでしかない。それにしても、マスコミの非がこれだけ頻繁に垂れ流されるに至っては、彼らに果たして社会を監視する資格があるのだろうかと思わずにいられない。日本では警察がなにかの不祥事を起こした際、マスコミはこぞって、「市民の生活を守る警察が悪いことをするとは何事か!」と槍玉にあげるが、それに似てなくもない。アメリカのマスコミが不祥事を起こした場合、自らの戒めをもって敏速に、世間が納得する制裁処置を講じる。それも、日本のような「甘い処置」ではない。つまり、マスコミ全体の信頼を守るために、自らジャーリズムの厳しさをもって向かい合っている。このようなことは日本のマスコミにはできない。マスコミの信頼と良識は決して発行部数や視聴率にあるのではなく、自らの非をも容赦なく制裁できるところのジャーナリズム精神にある。日本のマスコミを見ていると皆、「マスコミ屋」か「メディア商人」にしか見えないのである。

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2005.03.30

<新連載開始>「NYから眺めたフジヤマ」byマイク・アキオステリス(日本通米ジャーナリスト)⑧無用のイベント・愛知万博

三月二十五日、「愛・地球博」がスタートした。「大阪万博」から三十五年ぶり、二度目の万博だ。一応、125カ国、4つの国際機関が参加する「国際博覧会」となっているが、実態は地方博レベルの博覧会にしか思えない。実際、開催三が日の来場客数が約15万人、当初に予想していた三分の一である。人気がないのは日本だけではない。世界も無関心のようだ。実際、ここアメリカでも愛知万博に関する報道はあまり見かけない。そんな中、ロサンゼルス・タイムズに、愛知万博関連の小さな囲み記事が掲載されていた。内容は、中国新華社の報道を紹介しつつ、愛知万博を参観する各国指導者のほとんどが、国連改革に重要な影響を持つアフリカや中南米からだと指摘。愛知万博は日本が常任理事国入りするための「道具」だと皮肉っていた。他の国も似たり寄ったりだろう。こうした現象は広報不足からではなく、この手の博覧会自体、すでに無用のイベントになってしまったからである。70年の大阪万博は、日本が高度経済成長に向けて離陸、先進国に突入せんとする期待をして、それなりに熱気が渦巻いていた。ところが、今や物質文明そのものが否定され、拒絶されようとしている。時代感覚に疎い地元関係者たちはオリンピックをソウルに取られた自尊心からか、「おらが村にも世界的なイベントを誘致しなければ…、万博を誘致すれば空港も社会インフラも整備されるし、中部経済圏を世界中に知らしめることができる。おらが村には日本一の企業、世界のトヨタ様がいる」。トヨタ自動車の会長様は経団連会長として、無知と自己満足の算盤から万博を誘致、185日間のバカ騒ぎを始めた。
12_399まあ、これも一種の景気対策としよう。しかし、愛知万博の企画力や中身はとてもじゃないが、「国際博覧会」とは思えない次元である。開会式には元大関のKONISHIKI、歌手の浜崎あゆみ、森山良子…、人気ロック・グループの元リーダーYOSHIKIとやらが万博公式イメージ・ソングを指揮、藤井フミヤが名古屋市パビリオンをプロデュース、竹下景子が日本館の館長、なんで竹下景子が日本館なのか未だ、理解できない。そればかりか、開催期間中は歌舞伎や能の公演、大相撲万博場所、五月には氷川きよし万博記念コンサートなど、世界ではほとんど無名のタレント・芸能人を掻き集め、それで盛り上げている貧弱さである。長蛇の列ができると騒いでいるトヨタ館さえ、今ではめずらしくもない「ロボットの踊り」だ。これでは、東京ディズニーランドや大阪のユニバーサル・スタジオの方がましである。博覧会協会が主催するシンポジウムへの出席を検討していた環境保護団体「世界自然保護基金ジャパン」「日本野鳥の会」「日本自然保護協会」は、協会の環境保全への対応が不誠実だとして、シンポへの参加を取りやめた。これでは、自然博・環境博の看板が泣くってものだ。日本人はやたらと“愛”“やさしさ”なる言葉を掲げたがるようだが、そのような平和ボケした言葉に錯覚するほど、世界は甘くない。地球上の情報がリアルタイムで入手できるインターネット時代、土建屋を潤すだけの祭りにどれだけの意義、意味があるか疑問だ。まあいいだろう。「国際」や「世界」という「冠」に弱い日本は世界有数の金持ち国、膨大な金を使って大はしゃぎするのも“日本の勝手”である。

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2005.03.24

<新連載開始>「NYから眺めたフジヤマ」byマイク・アキオステリス(日本通米ジャーナリスト)⑦日本の「ぶら下がり制度」 

3月23日、電波監理審議会(総務相の諮問機関)はNHKの「会長の業務執行に関して助言する」との目的で顧問、参与と学識経験者による委員会を置けるとした定款から、顧問と参与を削除することを認めた。現在の顧問は元理事ら4人で、顧問料は1人平均年1300万円程度である。今になってやっと、NHKにおける顧問と参与がなくなったわけだ。それにしても、顧問や参与の目的が「会長の業務執行に関しての助言」というから、呆れる。助言を受けなければ経営に支障をきたすこと自体、トップとして失格である。このようなことはNHKだけではない。日本のほとんどの企業がこの手の、“建前”を使いまわしている。ボランティアならいざ知らず、高い報酬に運転手付の公用車を乗り回し、あてがわれた個室で踏ん反り返っている。そこですることといえば日々の、“暇つぶし”である。思うに、これは一種の日本特有の「互助会制度」である。いわば「社内天下り」と同じだ。昨年、親しくしている英国人ジャーナリストが、「日本の企業はトップを辞めた後に顧問、相談役、名誉会長になるが、彼らの役割と存在は何?」と聞いてきた。なるほど、アメリカにはこの手の役職はない。アメリカではトップを退いた後、引き続き協力する場合は別途、コンサルタント契約を結ぶのが一般的だ。でも、このようなケースとて稀である。ところが日本では、社長を退いた後に顧問、相談役、参与、名誉会長などなど、最後まで会社に“ぶらさがっている”。
12_374考えてみればおかしな話だ。トップを退いたら潔く、企業から去るのが常識である。なぜなら、経営者OBが長く会社に居座っているのは百害あって一利なし、だからである。新しくトップになった経営者にすれば、元社長連中が後ろに控えていては何かとやりづらい。まして日本は、典型的なサラリーマン社会の法則で動いているから、常に彼ら長老たちが口を挟み、影響力を誇示する。結局、彼らの顔色をみなければならなくなる。まったくナンセンスな話だ。これは政治の世界にもいえる。今現在、国会にて「元首相経験者は手をあげてください」といえば、5~6人が手をあげるはずだ。羽田元首相、橋本元首相、宮沢元首相、海部元首相、森元首相…、せっかく首相まで上り詰めたのにまたもや、一国会議員になって居座り続けている。無理もない。肩書き社会の日本では“元○○”の威力は絶対的だからである。しかしそれには、“元○○”の威力が通用する領域にいなければならない。そうでなければ橋本元首相のように、「一億円」をもって相談に訪れる人もいなくなる。こんなことは世界でも日本だけである。普通、首相や大統領にまで上りつめた後は大学で教鞭をとるとか、それとも慈善事業、コンサルタント活動など、今までの経験を生かしての社会貢献や、お国のためになるような活動に精を出す。よしんば、過去のポストに関わるとしたらカーター元大統領のように、「米国際政治研究会の理事」として外交のお手伝いするぐらいだ。それも、政府から声がかかればの話である。企業のトップは一種の権力者をして総責任者である。それだけに、その座を退いた日には、全てを後の者に委ねなければならない。そうでなければ、責任が曖昧になる。でも、日本の企業にはCEOの数だけ、役立たずの顧問や相談役が居座っているから「うんざり」する。(写真は、世の批難を浴び、わずか3日で顧問を辞任した海老沢勝二NHK前会長)

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2005.03.21

<新連載開始>「NYから眺めたフジヤマ」byマイク・アキオステリス(日本通米ジャーナリスト)⑥日本の大新聞の「報道の歪み」

  週末、インターネットで日本のニュースを観ていると読売新聞サイトに、【韓国大統領「竹島」で米の支持要請、ライス長官無反応】との見出しで、以下の記事が掲載されていた。【盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領は20日、ライス米国務長官と会談、竹島や教科書問題で日韓関係が悪化している現状について説明。盧大統領は、竹島問題などを念頭に…(中略)、間接的な表現で韓国への支持を促した。しかし、ライス長官は、特別な反応を示さなかった】。この記事に接した限り、韓国が竹島問題で米国から支持を取り付けようとしたかに受けとれる。なにより、“竹島で米の支持要請、ライス長官無反応”との見出しは、支持を要請した韓国側に米国は何の反応も示さなかったことをあえて、強調しているように感じられた。読売の見出しに「?」となった。ライス長官のアジア訪問に際しては米メディアも連日、報じている。米メディアや韓国の英字メディアにアクセス、関連報道を分析してみた。すると、真相は異なっていた。
12_048 今回の、ライス長官の日中韓訪問目的は「北朝鮮問題」にある。米国の北朝鮮政策は「米日韓の連携」を軸に据えている。ところが、韓国の盧政権は“同胞”の立場から甘き政策で向かい合ってきた。これでは空回りするだけだ。また、米国の描くシナリオに沿って足並みを揃えなければならない時期に日韓関係までギクシャクしてきた。それも、韓国で激しい対日感情まで生じている。日韓の対立は北朝鮮政策に影響を与えかねない。米国はさっそく、「今の時期、そんなことしている場合ではないでしょうに!」と、盧武鉉大統領に迫った。米国の政策をわかっている韓国は、米国のシナリオに不満をもっているから日本との関係を乱しているのではないとの、米国の誤解を解くことに重点を置いた。そして、最近の、日韓対立の要因となっている竹島問題を歴史に遡って説明、ライス長官に理解を求めた。ライス長官は韓国側からの説明を聞き、韓国が日韓関係を北朝鮮問題に連鎖させないことを確認した。つまり、ライス長官は両国の歴史的葛藤の説明(弁解ともいえるが)を受けただけなのでそれに、“反応”を示す状況ではなかった。それを読売の見出しは、韓国の要請にライス長官が「無反応」で対応したかのように報じた。この記事を目にした多く国民たちは、竹島問題で米国に支持を要請する「韓国の強かさ」に眉をひそめたことだろう。いくら竹島問題が“旬の話題”とはいえ、記事の焦点をはじめからそこに合わせて報じるのは一種の、「意図的報道」である。だいたい、米国が竹島問題など、自分たちに関係のない問題に片方の肩をもつなど、間違ってもありえないのが「国際外交の常識」である。この程度の常識さえも知らないから、無知な見出しが付けられるようだ。読売新聞といえば世界最大の部数を誇る大メディア…、世界の情勢、国際外交をもっと深い視点から分析してから、報じてもらいたいものだ。こうした「報道の歪み」は読売新聞だけではない。日本のマスコミでは多々、この手の歪みをして無責任なニュアンスを垂れ流している。真相や事実よりも読者受け、視聴者受けする視点、アングルで迫った方が話題になるからだろう。日本のメディアが世界から相手にされないのも案外、このへんの「報道の歪み」や「ニュアンスの違い」にあるような気がしてならない。(写真は竹島)

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2005.03.19

<新連載開始>「NYから眺めたフジヤマ」byマイク・アキオステリス(日本通米ジャーナリスト)⑤日本のTVコメンテーターの実力と質 

 先日、サンディエゴに住む友人(日系駐在員)のH氏が私の事務所に立ち寄った。彼はいつも、私に日本のビデオを持ってきてくれる。録画ビデオはワイド・ショーからバラエティー番組まで、いろいろだ。家に帰ってビデオを観覧した。ビデオを観ながら思ったことだが、番組に出演している「評論家」や「コメンテーター」と言われる奴らの、無責任でいい加減すぎる発言には毎度、うんざりさせられる。日本のTV局は社会的事件が持ち上がるとさっそく、スタジオに評論家やタレントを掻き集めては、わけのわからないことを語らせる。昨年、拉致問題が騒がれた時、某TV局が北朝鮮問題の特番を組んだ。評論家のセンセイ方やタレントも多数出演していた。番組の企画は悪くなかったが、出演者たちの無責任極まりない発言には正直、腹がたってきた。アジア政治研究家との肩書きで出演していた某大学教授は、「北の政権は破滅寸前です。日本が本気で経済制裁を行えば一気に、金政権に多大なダメージを与えられる」と、テンポの外れたことを言っていた。経済制裁の真の意味もわかっていないセンセイの、得意な顔が「バカ」に見えてきた。経済制裁は宣戦布告の一歩手前の外交処置。それによって周辺国との力学も大きく変動する。ましてや、日本への影響、日本が地理的状況などを考えたら、公の席で簡単に言える言葉ではないだろうに…。お笑いタレントにいたっては、「金正日は国民に飯もろくに食わせずして自分は、ハーレムのような生活をしている」と、週刊誌で仕入れた知識を賢明に披露している始末。
12_360   このような言葉が日夜、「公の電波」にのって日本中にばら撒かれる結果、世界でもっとも平和で無知な国民はそれがさも、まともな見解と思い込んでしまう。テレビ局はもっと、テレビの影響力を考えた上で出演者を選ばなければならない。でも、テレビ局やプロデュース自体、その辺のレベルがどのようなものかわかっていないから安易に、肩書きや名前で選任してしまう。シカゴ生まれの日本大好きタレント「デープ・スペクター」は、多くの番組に顔を出しては、『アメリカは日本と違って…』などと、それらしく吠えている。彼の言葉に思わず「?」となる場合がある。米国人だからアメリカに詳しいという先入観こそ、大間違いだ。この程度のタレントがコメンテーターとして「政治」を語り、「大言」を吐けるのだから、日本のメディアはなんと、敷居の低いところだろう、と思わずにいられない。有名人かそれとも、それなりの肩書きさえ付いていれば誰でも、評論家やコメンテーターになれる国、それが日本だ。米TV局ではこの手の番組に、評論家やコメンテーターなる人物は出演者させない。かりに出演させる場合でも、その人選はあらゆる角度から図られ、量られる。もし、出演させた人物が「トンチンカン」な言葉を吐いたらそれこそ、その程度の人物を出演させたテレビ局、プロデューサーの責任となる。少なくとも、プロを自認する欧米のメディア関係者たちは、「公の場」で取り上げる問題の背景、社会的影響がどのようなものかをしっかりと理解し、把握している。日本のように、お詫びのテロップを流せば済む話ではないのである。似非専門家、タレント評論家、無知な文化人が日本の将来を得意に語っているうちは、日本に「真の未来」はやってこないだろう。

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2005.03.14

<新連載開始>「NYから眺めたフジヤマ」byマイク・アキオステリス(日本通米ジャーナリスト)④堤義明逮捕で思う、“弱者”に強い日本のマスコミ

 コクド前会長の逮捕は前号でも述べたが、東京地検は11日、堤義明容疑者の勾留を延長した。期間は14日から23日までの10日間。彼は過去、米フォーブス誌の資産家ランキングで「世界一」になっている。世界有数の富豪が堀の中に放り込まれるとは、悪いことは出来ないもの…、いや、邸宅のような別荘に泊まり歩いているうちふと、今まで一度も泊ったことのない“別荘”にも泊まってみたいとなったのだろう。しかし、どこに行っても赤い絨毯で迎えられる人間に、狭い拘置所での二十日間は、酷であろう。前書きが長くなってしまった。彼の逮捕に日本中のマスコミが、「堤義明の権力」と「私生活」を暴きはじめた。それも、読者の好奇心を炊きつけんとして主に、愛人やオンナ問題に照準を合わせている。悪いことをした罰、社会的制裁といえばそれまでだが、それでも、彼をここまでバッシングする資格など、日本のマスコミにはないはずだ。なにも、彼を庇いたいからではない。ただ、相手が窮地に陥らなければ「負」と「問題」を取り上げない彼らの、打算とエゴが気にくわない。今まで「マスコミらしくない弱腰」に徹していたくせに今頃、競い合うように石を投げつける。これこそ、「赤信号みんなで渡れば恐くない」の習性であろう。このようなことはマスコミだけではない。西武グループの社員たちもまた、堤義明の独裁や公私混同を暴露しはじめた。「会長の秘書は風呂の世話までさせられる」「会長には正座して報告しなければならない」「社員は年に一度、堤康次郎の墓参りをしなければならい」などなど、社員の「不と負の言葉」が誌面を埋め尽くしている。もちろん、暴君の我が侭に逆らい、拒絶することは相当、勇気にいることだ。しかし、いくら雇われ身の弱き立場とはいえ、そのような不純企業、無理難題を押し付ける会社なら即、辞表を叩きつければすむことだ。それを、今になって『こんなこともありました』と、外部の者に被害者面して喋りまくるとは、「卑怯」のなにものでもない。少なくとも、そこに籍をおいている以上、大将を見捨てるような言動は「裏切り」となる。悪いことしたトップを弁護し、庇えないまでもせめて、沈黙を守ることが禄を食んだ者の、最低限の義なのである。マスコミが暴いている数々の矛盾や醜聞、暴挙などはなにも、今にはじまったことではない。それらは以前から、世間に広く知られていることだ。それを今更、勝ち誇ったように「スクープ」扱いで報じるとは、日本のマスコミには恥も外聞もないようだ。彼をここまでのさばらせたのはその実、マスコミのせいであることを忘れている。こうなる前になぜ、西武鉄道グループの矛盾と問題を真正面から取り上げ、指摘してこなかったのだろうか。マスコミが使命を放棄したからこそ、やりたい放題のことをやってこられたのである。これは堤義明のケースだけではない。影響力のあるジャーニーズ事務所のセクハラ問題もまた、マスコミは一切、取り上げようとしない。日本のマスコミには言論の自由を唱える資格など、ないのである。なぜなら、日本のマスコミは常に、周囲の顔色を見ながら歩調をあわせ、「強き者には弱く、弱い者には強い」からである。マスコミの餌食になっている堤義明がなんとなく、可哀想に思えてきた。

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2005.03.06

<新連載開始>「NYから眺めたフジヤマ」byマイク・アキオステリス(日本通米ジャーナリスト)③「カリスマ経営者」(堤義明)逮捕で思う日本のマスコミの「幼稚さ」

12_344「ひな祭り」の3月3日、コクド前会長・堤義明(70)が証券取引法違反容疑で逮捕された。堤義明はこの日を境に、“カリスマ経営者”が“カリスマ”でなくなってしまった、というわけだ。さっそく、日本のメディアは西武王国の斜陽を連日、垂れ流している。一時は世界一の富豪とも言われたワンマン経営者…、政財界・スポーツ界・芸能界にまで連なる華やかな人脈をして、マスコミは彼のことを、「カリスマ経営者」と呼んでいた。これまでの、「うやむや社会」の日本にあっては彼の逮捕は絶対、ありえないことであった。時代も変わったものだ。実は、彼が逮捕されたことにはそれほど、関心がない。悪いことをしでかした以上、逮捕は当然であるからだ。それよりも、彼のことを日本中のマスコミが“カリスマ経営者”と表していることに、幼稚さを感じる。欲ボケした二世経営者が「カリスマ」とは、笑わせるが、あの程度の経営者が「カリスマ」なら、本当のカリスマが出現した日には日本中が、腰を抜かさなければならないだろう。日本ではちょっとしたインパクト、存在感を放つ人物ならたちどころに、「カリスマ」「ドン」「軍団」などと、実態とかけ離れた称号が与えられる。その結果、リングの上で泣くしか能のない男が「涙のカリスマ」として、国会議員にもなれる。さらに、散髪屋のお兄ちゃんが「カリスマ美容師」と呼ばれることで、小学校高学年のアンケート調査で「将来なりたい職業」との質問に16%の児童が「美容師」と答える始末。「NHKのドン」や「自民党のドン」、「たけし軍団」や「石原軍団」…、「日光さる軍団」まである。これだけの“似非レッテル”が貼られる国は多分、世界で日本ぐらいだろう。もちろん、これらに深い意味はなく、メディア側が少しでも強い印象を与えようとする「マスコミ用レッテル」であることも知っている。だが、こうしたレッテルが「当たり前」のようになってしまうとやがては、何が本物で、何が偽物かの、境界すらわからなくなってしまう。そればかりか、その辺に転がっている小物たちに「○○のドン」「カリスマ○○」とのレッテルを貼って喜んでいること自体、浅く幼稚な視点なのである。マスコミはいつの時代にも、社会を健全な方向に誘導していかなければならない。それを…、実態とかけ離れたイメージ作りに手をかし、無責任なレッテルを貼り続けているといつまでたっても、「虚像社会」から抜け出せなくなる。欧米のメディアには「カリスマ」や「ドン」の言葉は見当たらない。欧米のマスコミは常に、社会の厳しき番人であろうとの努力を忘れずして、マスコミ・世論の健全な視点こそが、社会の良識、モラルをつくっていると自負している。マスコミの自尊心、マスコミの良識が社会を守る「ものさし」でなければならない。「カリスマ」や「ドン」なる言葉は、百獣の王である「ライオン」にこそ似合うのだが、それをネズミや狐たちに「カリスマ」とのレッテルを付けているようでは、日本のマスコミはいつまでたっても、世界から相手にされないだろう。そういえば、テレビで一言二言の意見を言えばこれまた、「○○界のご意見番」と呼ばれる。日本のマスコミは本当に、「やれやれ」の、疲れる国である。
(週1回を基本に、米国の日本通、ベテランのジャーナリストが、日本で話題になっていることを素材に、日本では当たり前、常識と思っていることが、実は世界的には例外、非常識であると解説するなど、日本の現状に鋭く切り込みます)。

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2005.02.24

<新連載開始>「NYから眺めたフジヤマ」byマイク・アキオステリス(日本通米ジャーナリスト) ②植草元教授の「モラルと資質」

26685米国時間2月21日、今日は「プレジデント・デー」で休日だ。朝起きて日本からのメール・マガジンに目を通す。日本時間二十一日、「手鏡」で逮捕された元教授植草一秀被告(44)の求刑があり、検察は懲役四月を求刑。弁護側は「誤認逮捕だ」と、無罪を主張。最終陳述で植草被告は「私は無実、潔白です」と述べたという。“懐かしい”事件だ。この種の事件には目のない日本のマスコミはさっそく、センセイに「ミラーマン」とのニックネームを献上した。それにしても「ミラーマン」とは、笑わせる。このへんのセンスは多分、日本のマスコミが世界一だろう。私は当初、エリート人生を棒に振った彼に同情した。ところが、である。その後の、ミラーマンの言動にがっかりした。この程度の人間が今まで、日本の経済政策を論じ、活躍していたかと思うと腹が立ってきた。あの一件にて彼の、モラルや資質は見事に証明されたにもかかわらず今尚、「私は潔白だ」といっているから益々、嫌な野郎に思えてきた。なるほど、“法的解釈”においては、無罪もあり得る(法的ゲームの攻防戦において)。しかし、車のトランクから出てきた変態写真、携帯電話のロリコン画像、女子学生の制服や大量のビデオ…、あの事件はこれらの延長線上にて生じたであろうことは、想像に難くない。それを今更、「私は無罪」だと主張するのは尚も、「法の抜け穴」を探して生き延びようとしている、としか思えない。つまり、「法廷ゲーム」に賭ける卑怯さである。それが吉と出るか凶と出るかは、楽しみだが、このセンセイのことだから多分、無罪にでもなったらさっそく、「国家権力によって被害者にされた」と、照れと恥をカムフラージュすべく目一杯、騒ぐだろう。もちろん、裁判には冤罪もある。また、ロリコンや性的趣味も個人の自由だ。だが、公人の看板を掲げて飯を食ってきた以上、モラルや資質における責任の方が、「ミラーマン」のそれよりも重いのである。無罪になろうが有罪になろうがそんなもの、もはや関係のないことだ。日本もそろそろ、公人たちのモラルや資質を監視し、制裁する「厳しき世論」を根付かせていかなければならない。アメリカのOJシンプソン事件は「無罪」の判決が下された。しかし、社会の良識は、彼の人間的モラルや資質をして、公の場で語る資格のない人間、との烙印を押している。マスコミも彼を、“話題”にすらしない。「人権」を隠れ蓑にしている偽善を見逃さない厳しさこそ、社会的モラル、良識が注ぐ厳しさなのである。実際、米社会における社会的監視や制裁は、日本では想像もできない厳しさにあり、この延長線上にて「陪審員制度」が維持されている。これに比べると日本は、天国だ。何度も逮捕された芸能人でも、ミソギの期間が終わればマスコミに復帰できる。また、悪い事をしでかしても「法律」さえ巧みにすり抜ければ、善人面できる。世界でもこれほど都合にいい国は、ないだろう。だからか、汚れた政治家や欲ボケした経営者たちが何年、何十年と裁判を引き伸ばしては、のさばっている。して、これらのモラルや良識を監視するのがマスコミや国民なのだが…、いかんせん、監視するどころかこれまた、一緒になって騒ぐ程度の良識しかもち合わせていないときている。あの「ミラーマン」が「無罪・潔白」を主張するのもなんとなく、わかるような気がしてきた(週1回を基本に、米国の日本通、ベテランのジャーナリストが、日本で話題になっていることを素材に、日本では当たり前、常識と思っていることが、実は世界的には例外、非常識であると解説するなど、日本の現状に鋭く切り込みます)。

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2005.02.19

<新連載開始>「NYから眺めたフジヤマ」byマイク・アキオステリス(日本通米ジャーナリスト)  ①ライブドアの幼稚な“マネーゲームごっこ”

●米国ならフジ首脳陣は全員、即クビ!

 2日本では「ライブドア」のミスター・ホリエがニッポン放送株を買い占め、大騒ぎになっている。
 彼は大学中退後にホームページの製作会社を立ち上げ、瞬く間に上場企業のオーナー社長となった青年実業家である。28歳で店頭公開を果たした実力をして一応、それなりの能力は備えているようだ。
 彼の存在が知られるようになったのはたしか、球団買収に手をあげた時からである。それからというもの、競馬場経営やネット証券買収など、派手な話題を振りまいてきた。マスコミはさっそく、ミスター・ホリエを現代のサクセス・ボーイに祭り上げた。
 日本のマスコミは「おもしろければ何でもいい」「視聴率が稼げたら誰でもいい」ときているから、ワイドショーからバラエティー番組までが、彼を担ぎ出した。なるほど、Tシャツにジンーズ姿の経営者はそれだけで、画になる。それも、常識をもわきまえずに吠えてくれるのだから、下手なタレントよりもおもしろい。ミスター・ホリエのキャラクターとパフォーマンスに逸早く目を付けたプロデューサーのセンスには、脱帽だ。そして今回、ニッポン放送の筆頭株主に躍り出て日本中を驚かせた。
 ニッポン放送はフジテレビの筆頭株主、フジが間接支配される可能性が浮上した。慌てたフジはニッポン放送株を25%超取得し、間接支配を防衛する策に出た。そもそも、彼に“狙われる隙”をつくったのはフジ側である。フジより小さい会社が親会社という不自然な関係を今日まで放置してきた経営責任は、小さくない。アメリカなら即、首脳陣全員、首である。ところが日本では、首どころか、「我こそ正義、乗っ取り屋と断固、戦う」と気勢を上げているから、笑わせる。
 世界第二の経済大国ではこの程度の経営者が大手メディアのトップになれる。これも、放送法や許認可権に保護されている業界ゆえ、能力がなくとも殿様商売ができるからだ。社会主義国家のような日本のメディア界にあっては、資本主義の原点ともいえる「株式」さえ、気にしなくてもいい。ビジネスマンにとってはまさに、最高の経営環境である。

●日本はマネーゲームでなく、マネーゲームごっこ 

 3とにかく、放送界に一撃をくらわした若き行動力には胸がスカッとする。32歳の若者が大手メディアに挑戦状を突きつけたことには、「無軌道」との解釈を省くことにした。しかし、彼のやっていることもまた、支離滅裂なところが日本の、日本らしいところである。
 アメリカは日本以上に、無謀な資本論理が罷り通っている。それだけに、水面下では連日、企業買収の攻防戦が熾烈に繰り広げられている。世界的通信会社「AT&T」、メディア王国「ウォルト・ディズニー」さえ狙われる、弱肉強食の世界だ。それに比べ日本は、同じマネーゲームでも「マネーゲームごっこ」である。
 実際、ミスター・ホリエはテレビに出て、自らの戦略を自慢げに披露する。それも、お笑い芸人相手に語っているのだから、呆れる。日本の騒動をウォール街の知人は、「ポーカー・フェイスは密室でやるもの。大通りのど真ん中で観客たちに手の内を見せながらゲームをしているとは実に、日本は平和な国だ」と笑っていた。また英国人ジャーナリストは、「日本にはまだまだ、カモがいっぱいいるね」と言い、別の証券マンは「マスコミが大騒ぎするほどの内容でもない」とキッパリ。この買収劇はミスター・ホリエにとって、致命的打撃となるだろう。

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