最初、この連載与太話タイトルは「鬱惚け老人の往事茫々日記」とつけたのだが、山岡が「右翼交友録」なんて改題してくれたものだから、右翼民族派の友人知己数人から連絡があった。「山岡のところなんかに書くなよ」という意見が多い。それで斯界における山岡のポジションがよく判った。「酒を呑むカネがなくてね」というと「じゃ仕様がないか」と忽ち理解してくれる。民族派諸兄はみんな優しい。ま、編集権は山岡にあるのだからこれ以上は言わない。ただし前に書いたように昔は無頼を気取った「ヤサぐれ記者」だったから当然、拗ね者でもある。天の邪鬼とも反骨ともいう。だから今回はある「元左翼過激派」のことを書こうーーホームレスのくせにウィキペディアに載ってるのはお前ぐらいじゃないか」というと「そうかも知れないな」と、牧田吉明(享年63歳)は寂しそうな顔で焼酎を呑んだ。死の三カ月ぐらい前の会話だ。今年の六月に岐阜で孤独死した牧田はかって新左翼のスターのひとりだった男だ。七〇年前後、黒ヘルのアナーキストだった牧田は仲間と盗んだダイナマイトを原料に「ピース缶爆弾」を量産して重信房子の赤軍派などに提供した。当時、牧田の父・与一郎は“三菱の天皇”といわれた三菱重工のワンマン社長である。母親の系譜は三菱・岩崎家から皇族まで繋がるというブルジョワのボンボン革命家は当時、週刊誌の好餌になり、あの政治の季節のお騒がせ屋だった。「左翼きってのハンサム」ともいわれ吉田喜重の映画「煉獄エロイカ」でテロリスト青年を演じた。そういえば白州次郎・正子夫妻も血縁者で、武相荘(=東京都町田市)を訪ねたといっていた。別件で京都で一年の拘留後しばらく三菱の“威光商売”で編集プロダクションを経営していたが、信州南小谷に転居して民宿を始めてからは、ある意味で初心を貫徹した、つまり自由気ままに開き直った生き方をしたのだと思う。小樽で葡萄農家、養鶏業に失敗して離婚、札幌で飲み屋もやったが殿様商法が上手くいくはずもない。無惨に零落し九年前、南佐久の小生を訪ねて来た頃は三菱デリカで車上生活のホームレスだった。仕方なく小生のやっていた民宿の居候になった。住民票も健康保険もなかった。だから小生の名義でクルマも二台買い、小生の保険証を持って歯科医にも行った。公安警察にも「過去の人」と無視され寂しげでもあった。
2010年10月11日掲載。この記事の続きを見たい方は、本紙改訂有料ネット記事アクセス・ジャーナルへ