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2005.04.28

<新連載開始>「NYから眺めたフジヤマ」byマイク・アキオステリス(日本通米ジャーナリスト)⑭「手続き」と「形式」の国・ニッポン

外国人の母から生まれた後、日本人の父に認知された7歳の男児が「日本国籍を認めないのは不当」とした訴訟で、東京地裁は4月13日、「国籍法は法律上の夫婦の子(嫡出子)と非嫡出子とに不合理な区別をしており、法の平等を定めた憲法に反する」との判断を示した。同判決をインターネット上で知った私は、日本人の子だから日本国籍は当然、と思った。ところが4月25日、国側が控訴した。控訴の理由は両親が正式に結婚していないからだそうである。子どもの両親は内縁関係にあった。それでも、いくら内縁関係だとしても日本人の父親が「私の子」と認知した以上、子どもは日本人なのである。それを控訴するとは…呆れたものだ。1212もちろんこれは、国籍法における家族の定義、社会秩序を考えての控訴だろうが、それにしてもだ。肉親の定義が「血」よりも「婚姻届」にあるとするのはどう考えてもおかしい。地裁の裁判長も、「価値観が多様化している今日、両親が法的に結婚している家族だけが正常な家族と評価することは困難。国籍取得の可否を親の法的関係だけで区別するのは不合理」と述べている。こんな常識的な判断を国が受け入れないとは…、日本という国の「器量」が疑われる事件である。この件ばかりではない。日本では何事も「形式」や「前例」にて量られる。日本に滞在していた時に日本人の友人から聞いた話だ。その友人が中学校一年生の時、彼は正妻の子どもではないとして父親の葬式に参席することができなかった。そこで当日、彼は葬式会場の近くまで行き、遠くから父親の霊柩車に手を合わしたそうである。中学一年生の少年には酷すぎる体験である。たしか元首相の故田中角栄氏の異母兄弟たちもまた、父親の葬式に参列できなかったようである。正妻の娘である田中真紀子氏が頑なに、彼らの参列を反対したそうだ。実の子が父親の葬式に参席できない国など、世界中探してもないはず。こんなことは葬式だけでない。結婚式も似たり寄ったりだ。結婚式の時に「乾杯音頭」に立つ人物のほとんどが、新婦や新郎に関係のないセンセイときている。結婚式の形式上、乾杯音頭や祝辞を述べてもらう人物の配慮に神経を使わなければならない。このような話は日本中、無数に転がっている。なんという建前、形式社会だろう。真実よりも形式、理論整然とした事実よりも手続きにて判断される社会…、反対に、確信犯であろうと偽りであろうと、そこに形式と手続きさえ揃っていれば、正当となる。英国系銀行NY支店に勤務する知人が日本に駐在していた時、日本企業における「始末書」と「辞表」だけは、どうして理解できなかったそうだ。日本の会社では何かの不祥事を起こした場合、あるいは失敗して損害を与えた時には必ず、「始末書」を書かされる。心から反省し謝罪することよりも、始末書という「手続き」の方が重んじられるという。過ちを認めなくても始末書さえ出せば、それで区切りがつく。「辞表」も同じだ。会社が嫌で辞めるのに今更、「一身上の都合…」はない。でも、こうした「前例」にて維持されてきた以上、それに合わせて「真実なき建前」で取り繕わなければならない。寂しき社会だ。話が逸れてしまったが日本人の親から生まれた子に日本の国籍を認めない場合、日本は世界の笑いものになるだろう。そんな愚だけは、避けてほしいものだ。

(大阪・京都取材に3日間でかけていたため、記事配信を休んいました。明日から、平常に戻ります)

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コメント

形式を重んじ前例の無いものを不当に排除している…などとは私には感じられないのですが。
それらは真に多数意見であると言う前提など無く発言者の趣向で決められ、それを説得させる詭弁に伝統や前例が都合良く利用されている。ダブルスタンダードも相矛盾する習慣も多い。どれも形式に見えているだけ…では?
だから、え?これって常識じゃなかったの?!なんてさして連続性のない変な習慣が生まれては消える。
権力者・為政者に都合の良い便利な習慣が結果として形式として温存されるのだ…と。上司の権力者の価値観が変われば、一瞬にしてまるで無かったかのようにそれらは消える。世紀末以後の日本人の急激なナショナリズム偏向は空恐ろしくもある。

前例だ形式だという相手の主張を受け容れている時点で、すでに負けている。その前提に立って対立しても、それら「形式」には決して勝てない。
新しき前例を作る者は、今言われているより古い事実や現に採用され効果を発揮しているかに見える他国強者の一部を全体であるかのように巧みに引用し採用させる。採用された時点でそれはすでに「形式」になっている。日本はそのように変わっている。
大きな所では、大化改新も江戸幕府開闢も明治以後の日本人感も前例を「発明」し、偽史を構築する。いや、これはどの国も同じでしょう。

投稿: 妙訝 | 2005.07.07 11:16

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